[読書]読書のしかたー回復のためのレッスン その1
(某SNSでしていたように、書く内容をこちらでもテーマ別にカテゴリ化してみる。あまりに増えると収集がつかないのので、「介護」「読書」「音楽」「生活」「心身」の5つぐらいにしておく。もちろん、それが重なる場合もある。全ては、回復のため、リハビリのためである)
鶴見俊輔『読書日録』(潮出版社、1985年、装丁;田村義也)を代田橋のバックパックブックスさんで古書購入。一瞬で目に止まり、これは買わないわけにはいかず。500円。状態もよく。
これから「読書」について、またそれがなんなのか、ということを含めて考えたことの記録を始めたい。これは書評ではないし、読書論とも違う(とは思う)。本を読むという行為は、いま、ほとんど全ての人が世界中に接続されてしまっている現代にあって、オフラインで世界を垣間見る、極めて貴重な体験であると私は考える。
それは贅沢だろうか。嘘やデマが跋扈し、溢れかえる情報から離れて、確かな視点とモノの考え方をいま一度自分自身に、静かに、ゆっくりと〈入れていく〉。
とはいえ、一気に読めるだけの気力や精神力は当の昔に過ぎ去った……心身とも向き合うレッスンとして、気になる本を10分ほど読む。それをまずは3ヶ月ほど毎日継続する。その中で気に入ったりしたものを残すという作業を行っていくことにする。
さて冒頭の『読書日録』の10分読書。哲学者・鶴見俊輔の遺した仕事は膨大で、とても全てを追えるわけもないが、冒頭の数ページだけでも得るところがあった(そして力が沸くのである)。
しかしいきなりの脱線だが、私にとって鶴見俊輔(の考え方や人生)は、生きる上で遠からず大事な指針の一人となった。初めて読んだのは『北米体験再考』(岩波新書、1971年)で、これは編集者であるR義兄からプレゼントしてもらったものだ。なぜこの本なのかは、これもまたそのうちに述べることにしたい。鶴見の人生は波瀾万丈であり、こういう立派な人物がいたことがまず驚きだ。ハーバードの話、その他……。読んで語りたいことは山ほどあるがひとまずはここで。
戻って、『読書日録』。冒頭から鶴見の人柄が滲み出るような文体で、気取ったり、えらぶったりするところが全くない。まだ読み始めではあるけど、最初から長くなるが、メモとして引用する。
ここで鶴見は、本をノートとして捉えている。この観点にはハッとさせられる。書き込むことによって、その本が「自分のノート」になるというのだ。
これは自分の記憶を喚起する上でも役に立ちそうだ。その時思っていたこと、その時にしか書けなかったことを、ひとまず書き記しておけば、何かを思い出せるからだ。
いまなら付箋でもいいだろうけど、何か一言でも、自分の言葉で、自分の言葉をその本に書く。それがノートになる……。
かつて自分もやっていた気がするが、あらためてチャレンジしてみようという気になった。
このたった1ページのところで、愛生園、志樹逸馬、兄事した先輩という言葉が出てくる。これは現国立ハンセン病療養所の長島愛生園をさしていて、志樹逸馬とはその療養所に生きた詩人である。兄事した先輩が誰なのかは不明だが、ひょっとすると大江満雄かもしれないと推測する。
実は、私はハンセン病文学(といっても詩に関してであるが)にそれなりの関心を寄せていて、かつては読書会、またイベントなども自分の店でやっていた。しかも最近では、都内某所で50人近く集まったイベントに、なぜか自分が登壇者として参加するという、貴重な機会に恵まれたのであった。
昨今ではハンセン病者による大江満雄編『いのちの芽』(岩波文庫、2024年、解説:大江満雄・木村哲也。オリジナルは三一書房〔1953年〕)の復刊、さらには鶴見俊輔著・木村哲也編『内にある声と遠い声: 鶴見俊輔ハンセン病論集』(青土社、2024年)も出ている。
余裕で10分を過ぎてしまった読書であるが、疲れては意味がないので、今日はこのあたりで。
追記 引用部分は、iphoneにインストールしたAdobe Scan を使用して原書を撮影してPDF化。それをテキスト化し、ワードに移してから、字間を一括置換で「トル」。しめて3分ほど。
一字一句を入力する時代はもはや遠い昔なのだ。ちょっとクラクラする。