迷うことから逃げる教員は要らない
多くの教員は、自分の教員としての指導スタイルやビジョンを持っている。
しかし、1年間か2年間で担任するクラスが変わる今の学校現場では、去年効果的であった指導方法が今年は全く通用しないなどということはよくあることである。
だから、教員は何年経験を積んでも、常に目の前の子どもを見続け、迷い、試行錯誤し続けなくてはならない。
もちろん経験が全く役に立たないわけではないが、経験に頼り過ぎてたかをくくり、思考停止になってしまうと痛い目を見ることになる。
しかし、ベテランになってくると、どうしても経験に頼りたくなってしまう。
今まで自分がやってきたことを客観的に評価できなくなってしまうのだ。
そして、『自分のやり方』というこだわりをもってしまう。
そして、迷うことやめる。
迷いがなくなれば、それはそれは楽であろう。
そして、迷いがあるのは弱いことであり
迷いがないのは強いことであると考えるようになる。
間違ってはいないが、
これは強いことが人として、または教員としてより良いことだと思っている者の理論である。
このような者は、迷いをなくすために自分の考え方や価値観をロックして固定してしまう。
これが、おじさんとかおばさんとか、ゆくゆくは老害とか呼ばれるようになる状態への始めの一歩だろう。
これは教員の世界だけの話ではないが、
教員のもつ子どもへの影響力を考えれば、このような教員は少ない方がいい。
迷いがあるから、試行錯誤し、常に新しいことを取り入れて、他の意見にも耳を傾けることができる。
迷いは若々しさであり、人としての魅力でもある。
しかし、迷うことをやめたい教員らは
迷わずにいられるように
教育全体が凝り固めてしまった。
その『凝り』の集合体が、学習指導要領である。
学習指導要領は指導のエビデンスとしてしばしば参照されるが、
実情は、迷いを捨てたい教員達が自分の身を守るための鎧のようなものである。
迷いがないということは、決断することもないということだ。
エビデンスに基づいて決定することは決断ではない。それは合理的な選択だ。
決断とは、どちらを選んでも、同じだけ反発やネガティブが出そうな場面で、自分の権力をもって自分が信じる方向に全体を動かし、その結果に責任をもつということだ。
迷うことから逃げ、決断することから逃げるような者が、未来ある子どもをどこへ導くというのだろうか。
教員は弱いままで良いのだ。
迷い続けることが大切なのである。