家庭から教育を取り上げる義務教育は要らない

20年程前の話題だが、その頃「家庭の教育力の低下」が指摘されていた。
当時の文部科学省の調査結果の中でその原因の上位に挙げられているのは「過保護・甘やかしすぎの親」「しつけや教育に無関心な親」の増加となっていた。
つまり、文部科学省は日本の教育が停滞していることの一端が親にあると名言したのだ。

子供を教育するのは親の努めなのだから当然だとの意見もあったが
日本の教育の停滞は「学力の低下」を示しており
人間形成に全般に関わる「広義の教育」に対して、
ここで問題視されているのは、学力に関する「狭義の教育」であるから
これを混同してはならない。

この問題が取り上げられてから最近では、子供たちの学力に一定のポジティブな要素が認められたものの、その反対で家庭の教育格差が問題となった。
保護者の経済環境とその子供の学力・学歴に相関があるとして取り上げられた。

この2つを結びつけて考えてみると
家庭の教育力についての指摘や関連する家庭への働きかけには何かが足りなかったのだろうと思う。

私は、そもそもの「家庭の教育力の低下」の原因である
「過保護・甘やかしすぎの親」「しつけや教育に無関心な親」がなぜ増加したのかを正しく捉えていないからではないかと考える。

では、なぜ「過保護・甘やかしすぎの親」「しつけや教育に無関心な親」が増加したのだろうか。
それは日本の公教育そのものに原因がある。

今の学校制度が始まる明治時代より前、江戸時代までの教育はどうだったかというと
子の教育はその家庭が全てを担っていた。
武士の子は武士としての教育を、商人の子は商人としての教育を、農民の子は農民としての教育を、各家庭で行っていた。
この時代は、親から直接仕事を教わる訳だから、
子にとっては親であり仕事の上司でもあった。
だから子供が親を尊敬する自然な流れがあった。
しかし、明治以降、富国強兵の名の下に公教育が始まり
日本を発展させるために都合の良い人材を育てるための教育が始まった。
そして、教育は家庭から切り離されてしまった。
すると、子供にとって親は衣食住を保証してくれるだけの存在となり
現代となっては、口うるさい邪魔な存在とされていることも多い。

親は子供のためにどれだけ働いても、子供からの尊敬は得られず
その尊敬はかつての教師やメディアで取り上げられる有名人・著名人に向けれらるようになった。
親の努力が報われなくなった今、親は子供の気を引くために甘やかすようになったり、
逆に気を引くことを諦めて無関心になったというわけだ。

要するに、「家庭の教育力の低下」の根本的原因は公教育が家庭から教育を取り上げたからなのだ。
だから、そもそも文部科学省が「家庭の教育力の低下」を指摘すること自体がお門違いなのだ。

そして「家庭の教育力」がなんなのか不明確なまま「学力の低下」だけが独り歩きしたことで
「家庭の教育力」=「家庭が子供にかけられるお金の量」にすり替わってしまい、これが「教育格差」になったのだと私は考える。

今こそ家庭に教育を変換し、今一度親に選択をさせるべきだ。
現代ではホームスクーリングも市民権を得ている。
自ら教育を施すか、公教育に委ねるか。
この選択をしないから、学校へのあらぬ不満や期待が膨張していく。
子どもに必要の教育を選び、親の意思で教育を与え、その意思をしっかり子供に伝えなければならない。

近年の家庭教育への働きかけに足りなかったものは、子から親への尊敬の念を引き出す仕組みなのではないか。
親への尊敬の念の大きさと学力にもきっと相関があるはすだ。

教育の停滞を親や社会情勢に責任転嫁する前に文部科学省は、公教育の在り方そのものを見直して欲しいものである。

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