期待されていなかった、けどそれでも続けてきたよ、私。
私の中学の吹奏楽部はとにかく厳しくって、全道コンクールの常連で、金賞を取れないと悔しくって泣く、というレベルの、田舎の中学生にはちょっと荷が重いほどの部活だった。
私が中二を終えるまでブラスの顧問をしていたのは、噂では九州の学校にまでその名を轟かせているという、とにかく凄腕の名指導者・Y先生だった。あの当時で50代くらいだったと思う、背の高くて細身の、口癖が「ばかもん!」な男性だった。
私は確かに幼稚園からピアノを習ってきて(その割にちっともうまくなれなかった、マジで…)、小学校でも鼓笛隊に入っていた。だからきっと、自分で意識しているより音楽が好きな子どもだったのだと思う。だもんで中学に入ったらブラスをやろう、と自然に思っていた。そして中学入学後、なりゆきでテナーサックスを担当することになったのだ。
花形と言えるアルトサックスより、かくだんと目立たないテナー。その上私はけっして上手い方では無く、なんというか私は、部の中でも埋もれた存在だったと思う。
件のY先生からも、たとえばすごく褒められた記憶も無ければ、かと言ってすごく叱られた記憶も無い。私はおそらくY先生にとっても、未だに記憶の底に埋もれた存在であるはずだ。
中二の修了式が終わる前に、Y先生の移動が発表された。あと一年居てくれれば、私たちの代の全道コンクール出場ならびに金賞獲得も、安泰だったのに—ちなみに25人編成の「C編成」で吹奏楽コンクールに出場する我が校には、最高名誉が「全道金賞」だ。全国大会出場というのは、今はどうなっているか知らないけれど、とりあえずその当時のC編成には用意されていない権利だったのだ。
部員全員が落胆したし、Y先生の離任式には殆どの部員が涙した。後任だったS先生という若い女性の先生には、その分えらく苦労させてしまった。誰もが「Y先生が良かった」というスタンスでS先生と向き合うのだから、そりゃあ何度も言い合いになったし、とにかくまあごたごたした。
(ちなみに中学最後のコンクールの結果、もう記憶に無い…おそらく「忘れてしまいたい」感じの結果だったのだろう。)
それでも私は最終的に、そのS先生にも心を開いたと記憶している。
「バンドジャーナル」という吹奏楽の専門誌があって、それを毎月購読し、読者ページにイラストを送ってたびたび掲載されていた私は、S先生の似顔絵もそこに載せてもらった記憶がある。S先生、喜んでくれたっけなあ。
1999年~2000年くらいのバンドジャーナルを読み返せば、私の投稿が見つけられるはずだ。確か「tenor・s」とかそんな名前で送っていた様な…。
(ちなみに、掲載された人に送られてくるはずのステッカーが一度も届かなかったことを、私は未だに根に持っている。)
さて、そんな吹奏楽部だったのだけれど、たとえば一つ上の学年のパーカッションの先輩は、高校でもブラスを続け、その才能を見初められて「吹奏楽推薦」的な枠で就職先に内定を貰っていた。私と同級のU君なんかは教育大に進んで、音楽の先生にもなったと聞く。
はっきり言って、そうして中学を卒業してからも音楽に携わった部員は、いるにはいるけれど稀少なモンだと思う。
しかしあのブラスにいる間はきっと、部員の誰しもが、少なくとも「一生この楽器に触れていたい」と願っていたはずだ。それだけは絶対に、確かなことだと言い切れる—だって私は、あの中に居たのだから。
けれど、実際には音楽を続けている元部員というのは—先述の通り、きっと数えるほどしかいないことだろう。
それは至極当たり前のことなのだ、バスケ部で三年間活動していたって、そのまま生涯バスケに関わってゆく人は少ない。漫画研究会にいたって、大人になってからも漫画を描き続けている人は、部活動時代と比べれば格段と少なくなるはずだ。
だからあのブラスにいたところで、楽器を、音楽を続けている人というのがいくら少なくったって、まったく何もおかしくなんか無い。
ただ、だ。
あの名指導者だったY先生が、今の私の様子を知ったら—先生はいったい、どんな感想を抱くのだろう。
先日私のバンドは、テレビ埼玉のCMに出演するというお仕事を頂いた。
確かに私は、テナーサックスを続ける夢についてはとっくの昔に諦めてしまった。
けれど、Y先生—私、今でも音楽、続けているんですよ。
Y先生にとって私はきっと、パッとしないしテナーも上手くないし、もう名前を出したとて絶対にすぐには思い出せない、そういう存在でしょう。
でも、私、こうして今でも音楽を続けている、きっと数少ない一人なんです。
…正直、あの頃はいろいろ悔しかった。
同級の部長にやたらバカにされて、本来なら私にも伝えられていなければおかしいはずの話すら、随分と後になってからでないと伝わってこないなんてこともたびたびあった。
テナーは一本あれば事足りる楽器なのに、二年間は一つ上の先輩、三年目には二つ下の後輩がいたから、いつだって二人いるテナー奏者は、どうにも「余りもの」感がぬぐえなかった。私は後輩がいる立場であったとて、なんとなく自分に「余りもの」感を抱いた。後輩が目も覚めるような美少女だったからかも知れない。
楽しくって大好きで、どんなに厳しい練習でも当たり前に受け入れてきたのがこの吹奏楽部だったのに、私はいつもどこかで自分が必要とされていない感覚を抱き続けて、Y先生に期待されていないことくらい、ちゃんとわきまえていたのだ。
けれど私は、今も音楽を続けている。
あんなに埋もれてしまっていた私が今「dボタンを押せー!!!」なんて言って、テレビの中で歌っている。
そのことを、Y先生はどんな風に受けとめてくれるのだろう。
できれば、喜んで欲しいと思う。
私のことなんて言われるまで忘れてしまっていても構わないから、もしも記憶の片隅にでも思い出して貰えたならばどうか、今でもこうして音楽を続けている私を、20数年越しに「認めて」欲しい—そう、思ってしまうのだ。
Y先生、私は、音楽を好きな私自身のこと、誇りに感じています。
どんな苦労をしても、どんな挫折を繰り返しても、それでも今こうして音楽をやり続けている自分のこと、心から誇りに思えるんです。
私はテナーのこと、上手に吹いてやれなかった。でも、あの厳しかった部活からちゃんと学んで、生かして、そうして大人になれたんだと思います。
私は今でも、音楽が好きです。
いつかあなたの目を見てそう伝えられたらいい、だから先生、どうか健康で、元気にお過ごしくださいね。