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社会的距離、心理的的距離

「社会的距離」という言葉を聞く度にこれからの時代を生きていくことが不安になって、眠れるけれども何度も何度も起きてしまう(加齢や頻尿が原因ではなく)。繋がりを持てない人生を続けている人にとってはこれからの時代を生きていくのはより一層しんどいものになっていくのだろうか。不安になってばかりいてもしかたがないので、「社会的距離」の意味を調べてみた。

【社会的距離】
個人と個人との間、集団と集団との間における親密性・親近性の程度。ソーシャルディスタンス。

親密性・親近性・ソーシャルディスタンスも調べてみるのも悪くない…と思い更に調べてみた。

【親密】
親しく交際していること。仲のよいこと。

【親近】
親しみ近づくこと。
そば近く仕える者。

【ソーシャルディスタンス】
「個人が《自分のパーソナルスペースを侵害された》という意識を抱かずに済む十分な対人距離」という意味で用いられる語でもある。この意味におけるソーシャルディスタンスは、相手との関係によっても距離が違ってくる。親しい間柄ほどソーシャルディスタンスは近く(距離が短く)なり、全く面識がなかったり警戒心を抱いていたりすると距離が開く。

言葉の使われ方は時代によって変化していくもので、言葉の意味も変容していくものだけれど…改めて言葉の意味を調べてみると……「感染症の飛沫感染リスクを抑えるために、あまり人と近寄り過ぎず、常に一定以上の距離を確保するように意識しましょう」と簡潔に呼びかける為に使われ始めたのかなあ…と思ったり思わなかったりする。

本来の意味を考えれば、今のような使われ方をしていると「これから先の時代は、人と人との距離が益々離れていく」ような気がしてならない。もし、そんな風に変容していくのなら「生き方」とか「働き方」とか「学び方」に対してこれまでの受け止め方を変えていかないと「繋がりを持てない人生を続けている人にとってはこれからの時代を生きていくのはより一層しんどい世の中」になっていくんだろう。

感染防止の為に「距離をとりましょう」と言うけれど、そもそも人間は感染防止以前から公共の場所で距離をとってきていた。だから、必要な事であれば誰に言われるでもなく、自ずから距離をとっていくようになるでしょう。だから、殊更に「距離をとりましょう」と言わなければならないことなんだろうかと思えてならない。

同調圧力が強まりつつある社会では、感染防止を理由にして必要以上に「距離をとっていく」ようになりかねないのではないか。物理的な面だけではなくて、心理的な面においても。感染防止の為に「距離をとること」は必要なことだけれども、…行き過ぎれば「同調圧力が強まり、監視社会に…」とも言い切れないと思う。

こうした点を踏まえた上で感染防止のための社会的距離の実現を目指していかなければ。

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