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鶴見俊輔の柳田国男評価(橋川文三以前)

 鶴見俊輔の著作集は3度にわたって出版されている。最初の著作集は『鶴見俊輔著作集』として筑摩書房より1975、1976年に出版されている。この中の第2巻の「思想Ⅰ」には、思想家論のひとつとして「柳田国男」という文章が収録されている。この文章は、2回目の著作集である『鶴見俊輔集』(筑摩書房, 1991年より出版)には収録されていない(注1)ので、読むことのできる機会が少ないと思われる。以下に重要だと思われる部分を引用してみたい。

(前略)柳田国男の学問は、方法としては、現象学的であり、傾向としては伝統主義である。現象学的方法は、とにかく現われてくることは、何一つもらさず、全部かきしるしておくということである。(中略)資料批判の欠如と法則への還元の弱さとが、この現象学的方法につきまとっている。ただその故に、かえって、われわれの世界をつつみ、いやおうなしに色づけてしまう独特の説得力が、柳田国男の著作からうまれてくる。(中略)柳田国男においては、伝統のとらえかたが深い。大昔から日本人のして来た多様な生活様式の目録をつくり、その中から、現在に必要な生活上の工夫の手がかりを見つけようとするのだ。このように考えられた伝統主義が、明治以後の官僚のつくった速成の伝統、昭和時代の右翼のつくった速成の日本主義と対立する契機をふくんでいたことは当然である。柳田国男の伝統主義は、現状を不変のものとしてとらえる現状維持主義でもなく、昔にかえれという復古反動思想でもない。これは、進歩主義とつねに対話する用意のある保守主義である。(後略)(筆者が重要だと考える部分を太字にした。)

現在、上記の文章を読んでみると、よくある柳田国男の評価だという感想を人によっては持つかもしれない。しかしながら、興味深いのはこの文章が書かれた年代である。第2巻の「思想Ⅰ」の「改題」によると、この文章は1957年に「進歩主義と常に対話する用意」というタイトルで『日本読書新聞』に発表されている。この時期は、柳田国男研究の先行者である橋川文三の研究もまだ発表されていない。(注2)そのような時期に、現在もっとも流通しているように思われる柳田理解(注3)の基礎となるような考え方が鶴見の中にあったということが私にとっては驚きである。これは鶴見の思想家に対するするどい洞察を示すひとつの例になると私には思われる。

 注2で引用した『橋川文三 野戦攻城の思想』宮嶋繁明によると、橋川は鶴見のすすめで柳田を論じるようになったというが、私が橋川の柳田論を読んだ限り上記に紹介した鶴見の柳田理解と重なる部分がある。柳田の論じられ方は、それだけで研究されるべき大きな主題ではあるが、現在流通している柳田理解の底流には鶴見の柳田に対する考え方があるのではないかということをここでは指摘しておきたい。

(注1)『鶴見俊輔集』には、第2巻「先行者」たちに「母の糸車」という別の柳田国男に関する文章が収録されている。

(注2)『橋川文三 野戦攻城の思想』宮嶋繁明(弦書房, 2020年)を参考にした。

(注3)現在もっとも流通していると思われる柳田の理解は私も以下の記事で紹介したので、関心のある方は読んで欲しい。


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