国家主義者・蓑田胸喜に苦言を呈する南方熊楠―毛利柴庵への書簡から
南方熊楠は多くの書簡を残しており、これらの書簡は南方の交流関係や思想を検討する上で貴重な資料となっている。南方の書簡の重要性は南方研究にとどまらない。他の研究領域の近現代史の資料としても重要であり、書簡のやり取りの背景が分かれば読み物としてもおもしろい。(分からなくてもおもしろいものがあるのが南方の書簡のすごいところである。)彼の書簡の中には、以下の記事で紹介したような意外な情報が書かれていることがあり、それを見つけるのも楽しみのひとつである。
新聞『牟婁新報』を主宰、社会主義者たちに言論の場を提供し、言論人、仏教者、政治家など多様な側面のあった毛利柴庵(清雅)と南方は生涯に渡って深い交流があったが、両者の間には多くの書簡のやり取りがされている。これらの書簡は、翻刻されて『南方熊楠書簡―盟友 毛利清雅へ』中瀬喜陽編(日本エディターズスクール出版部, 1988年)として出版されている。南方は神社合祀への反対運動、田辺周辺の自然環境の保護活動に積極的に関わっていたことが有名であるが、毛利との書簡からは南方がこれらの活動以外にも政治に関心を寄せていたことが分かる。その中には当時の政治家や言論人に対する批判もあるので、南方から毛利に送られた書簡を以下に一例として引用してみたい。
昭和十年九月十七日夜八時半(前略)「日本」新聞は、小川平吉氏を執行猶予にする約束とかにて突然廃刊、然るに宅野田夫、蓑田胸喜二人、此事を不服にて三週間斗りの休刊の後ち「大日本新聞」といふ者を刊行致し居り候。小生方へも贈り来れる故、ただ貰ふわけにも参らず三ヶ月分東京の友人に頼み仕払ひやり候。然るに宅野は此事を大書し、「世はさまざま」とか題し、其知人たる広田外相は「大日本新聞」刊行の事に関し甚だ失敬な事を申し来れるに反し、南方先生はわざわざ予約金を送り来れり、同時に土耳其公使館付某大佐よりも購読申込み有りしはいと皮肉な事也云々と書き立てあり。いかに書く事なければとて、甚だ局量の狭き言ひ文と一笑致し居り候。而して宅野、蓑田二人は、今に少しも手を緩めず美濃部博士を厳罰し、機関説を全滅すべしといふ事のみしちくどく強説しおり、所謂大義名分論の外に何一つ説かず。この大義名分といふ事、言ふは易くして実は何の事やら分らず。(中略)小生はこんな事をいつ迄呶々するよりも、さし当り今度の選挙法の事などに付き、今少し論するものなきを憾む。(後略)
上記の引用部分に登場する「日本新聞」は以下の記事で紹介したように国家主義的な言説を展開していた小川平吉が主宰していた新聞だが、南方もこの新聞を購読していたことが分かる。
蓑田胸喜は国家主義者で南方の書簡にもあるように美濃部達吉など多くの言論人を排除しようとして言論活動をしていたことが知られているが、「大日本新聞」という新聞を日本新聞の後を受ける形で発行して南方も最初の方は購読していたようだ。しかしながら、南方は蓑田の活動を「所謂大義名分論の外に何一つ説かず」と評価しており、もっと建設的な議論を行うべきだと批判している。南方は晩年になっても政治や世の中の情勢に関心を持ち続けていたことが分かるだろう。
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