謎の民俗研究者・石橋臥波の日本民俗学会にも参加していた尾佐竹猛
大審院などの判事を歴任して憲政史・明治文化・アウトロー世界(犯罪・賭博など)の歴史・民俗の研究者として知られている尾佐竹猛は当時黎明期にあった郷土研究・民俗学にも関心を持っていたことが分かっている。たとえば、尾佐竹は13歳で自分の住んでいた地域の歴史をまとめて、それを増補したものを28歳の年(明治41年)に『志賀瑣羅誌』として発行した。(注1)
また、尾佐竹は新渡戸稲造の主宰していた郷土会に参加していたことが知られている。尾佐竹は明治41~43年の間に伊豆諸島の新島の判事を兼任して業務のために年に数日間新島に滞在したが、その際に余暇を利用して現地の調査を行っていた。その際に調査した内容は郷土会で報告されて柳田国男・高木敏雄の『郷土研究』第4巻第3~5号(大正5年)にも「伊豆新島の話」として連載された。このように尾佐竹は柳田と接点があった。
その一方で柳田が積極的に関わらなかったと考えられている石橋臥波の日本民俗学会(注2)にも尾佐竹は参加していたことが雑誌『民俗』からわかる。(この雑誌は以下の記事で紹介したことがある。)
『民俗』第1集第2報(大正2年)の「会報」によれば、大正2年6月21日に日本民俗学会第3回講演会が東京帝国大学法科大学で行われたが、そこに尾佐竹も出席したという。また、この号に日本民俗学会会員名簿が載っているが、その中に尾佐竹の名前も確認できる。尾佐竹と初期の民俗学との接点は柳田だけではなかったようだ。尾佐竹はどのようなきっかけで日本民俗学会に参加するようになったのだろうか。また、尾佐竹と石橋の間にはどのような交流があったのだろうか。
(注1)『広報しか』令和元年10月号を参照。以下のリンク先からバックナンバーが閲覧できる。
(注2)石橋の日本民俗学会は現在の日本民俗学会とはまったく別であることに注意が必要。