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柳田国男を困らせる雑誌『民俗藝術』を発行していた四海書房―雑誌『民俗藝術』発行元変更の謎②

 以前以下の記事で小寺融吉、北野博美が編集していた雑誌『民俗藝術』の発行元が度々変わっていることを紹介したが、以下に発行元の変遷に発行年を追記したものを再掲したい。

1巻1号(1928年1月)~4巻3号(1931年3月) 発行者:富永董 / 発行所:地平社書房 / 編集:小寺融吉

4巻4号(1931年7月)~6号(1932年3月) 発行者:四海民蔵 / 発行所:民俗藝術の会 / 編集:北野博美 発売所:四海書房

5巻1号(1932年4月)~3号(1932年6月) 発行兼印刷者:萩原正徳 / 発行所:民俗藝術の会 / 編集:北野博美 / 発売所:三元社

5巻4号(1932年7月)~6号(1932年9月) 発行所:民俗藝術の会 / 編集兼発行:北野博美 ※民俗藝術の会の住所は三元社の住所と同じなので、引き続き三元社内に会の事務局はあったようである。

今回注目したいのは四海書房で発行されていた時期である。上記の記事でも紹介したが、『民俗藝術』4巻4号に、発行所が四海書房に変更になった理由に関して、編集後記で「経済的に行き詰まった為なのだが、雑誌そのものが売れない為に行き詰まったのではなかった」とだけ述べられており、それまで『民俗藝術』を発行していた地平社書房が経済的に行き詰ったことが推測される。『民俗藝術』4巻4号によると、四海書房は民俗藝術の会の会員でもあった四海民蔵によって経営されていた出版社のため、『民俗藝術』の発行を受け入れたのだろう。

 興味深いのは、『民俗藝術』は月刊の雑誌であったが、四海民蔵が発行者、四海書房が発行所になっている時期のみ4巻4号(1931年7月)、4巻5号(1931年9月)、4巻6号(1932年3月)と断続的な刊行になっている点である。このように発行が断続的になっている理由に関しては、『民俗藝術』では詳細は語られていない。4巻6号の編集後記では「本号の編集を了へたのは八月の下旬」であったが、「誰が悪い、何がいけなかったといふ事は一つもなかったのだが、不思議に思はれる程、不運不都合が重って」発行が遅くなったとのみ述べられている。しかしながら、5巻1号の編集後記で「従来の発売所四海書房とは第四巻第六号で絶縁し」と述べられているため、民俗藝術の会と四海書房の間に何らかのトラブルがあったことが推測される。

 両者の間に起こったトラブルを推測させる事実が柳田国男の折口信夫宛の書簡にも含まれる。以下に該当する部分を『定本柳田国男集 別巻4』(筑摩書房、1971年)から引用してみたい。

(昭和六年十二月三日)(前略)此頃は御健康は如何ですか/四海書房の容子はわかりましたか/主人快復の見込があるか否御たしかめ被成/事によったらどこかに引継がせるやうにしては如何です/京都の島田君から写真の実費だけはせめて返せと言って来ました/此人のやうに遠慮の無い人以外に/蔭で私を恨んで居る人も多からうと考へて不安です/私は全く貴君の為に加担したのですからもし貴君が御見棄てなさるやうなら成るべく早く其事を御通知下さい(後略)

四海書房の主人である四海民蔵が体調を崩しており、そのことを柳田が気にしていることが分かる。その上で柳田は『民俗藝術』の発行を「どこかに引継がせるやうにしては」と折口に助言している。「貴君の為に加担した」とあり、詳細は不明ながら『民俗藝術』に関して柳田は折口に積極的に協力していたようである。

(昭和七年三月三十日)(前略)さて御煩はしく候はんが別紙紙御一覧被下何とか御始末被下度御依頼申上候/四海君の所行は只の商人道徳をさへも無視しをり候/金はとにかく原稿だけは早く返してやる必要有之と存候/小生も折々斯ういふ手紙をうけ取り其為に半日位は気になって本もよめ不申候/今回のことは全く御口添を信じ且つ貴君の為に起ちしもの故この上の迷惑を及ぼさぬだけのことは御引受被下度/各地予約者の小生を責任者の如く厳談し来り候もたまらず候が暮には京都の島田君の為に写真屋への支払を命ぜられ申候(後略)

柳田が四海の対応を不満に思っており、折口に何とか収拾をつけて欲しいと依頼している。柳田の書簡によると、四海は『民俗藝術』の発行元が移った後も原稿を返却せずお金を支払わなかったようである。

 以上から詳細は不明ながら四海書房と柳田、折口、民俗藝術の会との間に何らかのトラブルがあったことが分かる。柳田の書簡からは金銭、投稿者の原稿をめぐるトラブルであるようだが、『民俗藝術』5巻1号の編集後記での「絶縁」という強い表現からより深刻な問題があったと思われる。なお、地平社書房から四海書房へ発行所が移った際には地平社書房に対して「絶縁」という表現は使用されていなかった。

 余談になってしまうかもしれないが、四海は自分の仕事を振り返った自伝があるようだ。この本を読めば、『民俗藝術』の発行していた時に四海書房の状況が分かるかもしれない。

(2022/1/7追記)大きな勘違いがあったので追記しておきたい。『本屋風情』岡茂雄(角川ソフィア文庫、2018年)によると、上記に引用した柳田から折口への書簡は『民俗藝術』のことではなく、四海書房が企画していた『郷土科学講座』のことであったようである。岡によれば、同時期に岡書院が『人類学・民族学講座』を企画して柳田の賛同も得ていたが、柳田は並行して四海書房と『郷土科学講座』という企画を進めており、岡書院の企画した『人類学・民族学講座』が流産したという。上記の柳田の書簡は四海書房の『郷土科学講座』の出版を巡るやり取りであったと『本屋風情』では述べられている。『郷土科学講座』をめぐる問題も同時期に『民俗藝術』の発行元が四海書房から変更になった一因かもしれない。

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