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『現代思想 民俗学の現在』についてのメモ―柳田国男を原点とすること
先日、『現代思想 民俗学の現在』(2024年5月)を読み終えた。この本の主なテーマは現在・今後の民俗学を考えることであるが、興味深い論考が多いので以下に目次のリンク先を貼っておく。個人的には、ものの解放性/権力性を論じた門田岳久さん「ヴァナキュラー・マテリアリティ―人・モノ・権力の民俗学へ」が特に興味深かった。
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この本の各論考で論じられてている現在・将来の民俗学の姿に共通するのは「日常から出発する民俗学」、「個人の経験や疑問を大切にしつつもいかに普遍的・公共的な問題に結びつけるか」、「個人の経験に基づいた批判的な学問」という論点であると私は読んだ。この問題意識は以下の記事で紹介したような柳田国男の民俗学の初志と接続しており、私は現在の民俗学の柳田への回帰という印象を受けた。
ところで、民俗学は近年に限らず脱柳田の民俗学や柳田への回帰という2つの方向性が議論されている。そして今回の特集のような柳田の民俗学を原点、柳田へ回帰することへの批判もあるように思われる。
ここで今回の特集を読んで私が考えさせられたのはこの民俗学が柳田から出発すること/に回帰することについてである。私はこの柳田を原点とすることは良い事であると考えている。ただし、この原点は柳田だけでなく柳田の周辺やその外で営まれていた調査・研究活動を含むものでああろう。私の関心のひとつに柳田や南方熊楠などの著名な研究者と交流のあった経歴や仕事がよく分からない人物、彼らの交流、彼らの発行していた雑誌の調査があるが、この調査を通じて柳田とは離れた場所で展開された活動が各地域にあったことが分かった。たとえば、以下の記事で紹介して総目次も作成した加賀紫水の発行していた雑誌『土の香』は柳田も投稿したり、読んでいたりしていたが基本的にはあまり関係がなかった。
『土の香』はひとつの例であるが、前述のようにこのような活動は各地域にあり、これらの活動は互いにゆるく結び付いていた。このような柳田も包括することができないような在野の同好者・研究者の知のネットワークがあり、柳田の民俗学はそれを前提として成立した。そのため、民俗学の柳田を原点とする場合、それはこのような民俗学の前提となっている知のネットワークも含むものであると私が考えている。
民俗学が柳田を含めた在野の知のネットワークから発生した学問であり、現在の民俗学もその系譜を引き継ぐものである。この原点から出発できる/に回帰することができることが民俗学の特徴であり、強みでもあると私は考えている。民俗学の原点にある知のネットワークは現在ではどのような形で展開されているのだろうか。また、この知のネットワークを現在の民俗学とどのように接続されるのだろうか。
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