見出し画像

雑誌『郷土研究』の発行者・岡村千秋周辺のドロドロ

 最近、三村宜敬さん「本山桂川と閑話叢書関係資料―佐々木喜善宛書簡にみるその計画と結末―」『熊楠研究』第13号(2019年)を読んだ。この論文は本山桂川が深い交流のあった佐々木喜善宛の書簡を通して本山が企画して坂本書店が発行した「閑話叢書」の顛末が検討されている。以前拙noteでは以下の記事のように、南方熊楠の書簡は民俗学関連の出版史を検討する上での資料になりうることを紹介したが、本山の書簡にも当時の民俗学関連の出版界の裏事情が語られている。

該当部分を以下に本山から佐々木宛の大正15年11月22日の書簡から一部を引用してみたい。

(前略)印税といふ文字さへ使はねば問題は起らないものを、うっかりしてやられ、それをさはいで問題にして、それを又中山(中山太郎)といふゴマノハヘがさはき立て(之は柳田(柳田国男)岡村(岡村千秋)に対する自分自身の面目をとりとめる為めと私はにらんでゐる)金さへなればといふ算段から皆坂本(坂本書店の経営者・坂本篤)に付いてゐる今に思ひ当るでせう。(後略)/唯一人、私の好いものを引出そうとしてはくれない。つらいつらい旅の空で、あなた(佐々木喜善)ばかりは好いも悪いもじっと見てゐて許してゐて下さる。私は感謝しないではゐられません。元々私の出京は岡村に取って大いな脅威であったらしい。実際又曽っては柳田氏も岡村の仕事を私にやらせたらと云はれたこともあった。さうしたことから絶えず岡村はまるで商売かたきのやうに私をうらんでゐる。そこに以って来て、一度中山が私に(柳田への反感を示す道具として)肩をもとうとしたことがある。それを又岡村にとやかく云はれ、今はそれをつぐなう心持から又々柳田にお世辞をつかい、岡村と手を取って私につらく当るやうになった。(後略)(括弧内はKamikawaが追記した。)

岡本千秋については、柳田国男・高木敏雄の編集していた雑誌『郷土研究』の発行者として知られており、稲岡勝監修『出版文化人物事典』(日外アソシエーツ、2013年)に以下のように立項されている。

生年月日 明治17年(1884年)5月17日
没年月日 昭和16年(1941年)10月21日
出生地 長野県南安曇郡明盛村
(中略)
農家の二男。明治40年(Kamikawa注:早稲田)大学を卒業して読売新聞社に入社。柳田国男と交流を持ち、その長兄である松岡鼎の二女と結婚。44年退社し、東華洋行、逓信省、武侠世界社などに勤めた後、柳田の紹介で博文館に入社。傍ら、大正2年柳田の雑誌創刊の志を援けて郷土研究社を創業、雑誌「郷土研究」の発行業務に従事した。また、柳田の肝煎りによる「甲寅叢書」、「炉辺叢書」の出版にも尽力。15年博文館を退社して郷土研究社に専念(後略)

 上記に引用した本山の書簡は本山視点の状況であるが、岡村が本山のことを同業者として警戒していたらしいことがわかる。この当時、本山は職を求めて長崎県から上京して千葉県の市川に住んでいたが、民俗学関連の雑誌は数が少なく雑誌『土の鈴』を発行した実績があって様々な研究者・同好者と交流があり、炉辺叢書とコンセプトが一部重複している(ようにも見える)閑話叢書を企画していた本山は岡村にとって脅威であっても不思議ではないだろう。もっとも本山は別の佐々木宛の書簡で「炉辺叢書向きと思はれるものは御相談の上其の方に御推薦したいとも考へます」(三村さんの上記論文の中で引用されている大正15年1月22日の書簡を参照)と述べており、炉辺叢書に対して配慮していたようである。

 また、興味深いのは中山の動きである。当時、本山は閑話叢書の印税支払いに関するトラブルの対応に追われていたが、ここでは中山は本山側から柳田側に鞍替えしたと述べられている。中山は柳田とは異なる学風であったため柳田とは対立していたように語られることがあるが、本山には柳田と対立しながらも状況に応じて対立している側に与するという政治的な人物に映ったようである。この部分は当時の民俗学・郷土研究周辺のリアルな人間関係があらわれていておもしろい。最後に補足しておくと、中山も岡村と同様に博文社に勤めていたので、仕事面の人間関係もあったのではないだろうか。

いいなと思ったら応援しよう!

Theopotamos (Kamikawa)
よろしければサポートをよろしくお願いいたします。サポートは、研究や調査を進める際に必要な資料、書籍、論文の購入費用にさせていただきます。