忘れられた民俗学研究者・出口米吉と北陸人類学会
以前に以下の記事で紹介した民俗学研究者・出口米吉の経歴には触れられていないが、出口は1895年に発足した北陸人類学会に積極的に関わっていたようだ。私が年譜に追記した「民俗学、人類学の同好会を組織していた。(高桑良興「序に代へて」『近畿民俗』第28号より)」の「民俗学、人類学の同好会」が北陸人類学会を指していると思われる。この研究会は、『北陸人類学会志』という会誌を発行しており、この雑誌の復刻版が『復刻日本考古学文献集成<3> 北陸人類学会志』斎藤忠監修・解説(第一書房, 1982年)として出版されている。この本に収録されている『北陸人類学会志』第1編によると、北陸人類学会は定期的に例会を開催していたようである。この雑誌から確認できる出口の活動を以下に箇条書きで引用してみたい。なお、会は言及がないかぎり、雑誌上に記載されている「第X会」という形式で記載する。(Xには数字が入る。)
・1895年11月23日に開催された北陸人類学会の発会式で「本会員の目的に就きて意見を述ふ」という講演を行う。
・第2会で発会式に出品された天餘糧に関して意見を述べる。
・第3会(この会より1896年に開催)で評議員に選出される。
・第4会で、事前に「正月の風俗」の地方会員の報告を取りまとめる責任者に指名され当日に発表を行う。
・第5会で評議員を辞退する。(後任は北山重正という人物)
・第6会で河北瀉畔へ地理、地質などの調査に行く。出口の送別会も兼ねる。
興味深いのは出口が第6会を最後に金沢を離れたらしいということである。上記の記事でも引用した『近畿民俗』(近畿民俗学会)の第28号(通巻35号,1961年)、第29号(通巻36号,1962年)に掲載されている後藤捷一編集の年譜では、1898年に東京高等師範学校に入学したとされているが、出口の送別会が1896年に行われていることを考慮すると入学まで少し空白がある。この期間は東京で受験勉強をしていたのであろうか。
また、出口は評議員に選ばれながらも辞退しているが、ここには出口の性格が表れているように思われる。後藤が編集した年譜をみていただければ分かるように、出口は生涯世間的な地位や財産とは無縁なところで研究を行っていた。この辞退も自分の研究に専念するために余計なことをしたくないという考えが出口の中にあったからではないだろうか。
最後に、『北陸人類学会志』第1編では、出口が「日本考古提要」を1冊、「日本地理暗射分割図」を11枚、北陸人類学会の創立費として1円を寄付したことが紹介されている。北陸人類学会の創立期から出口は大きく関わっていたことが分かるだろう。