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南方熊楠の『郷土研究』休刊理由の分析

 南方熊楠柳田国男は深い交流があり後に決別したことは知られているが、熊楠はその後にも柳田の編集していた雑誌『郷土研究』に投稿を続けている。『郷土研究』は1917年3月に第4巻第12号をもって休刊となるが、熊楠は『郷土研究』が休刊となってしまった理由を分析している。熊楠が土佐の郷土研究者・寺石正路に1917年2月15日に宛てた書簡から以下に引用してみたい。(『南方熊楠全集』第9巻(平凡社、1973年)より引用。)

柳田氏はずいぶん狭量な人にて、自分独り合点のあまり、面白からざる文をもって毎号(川村、大野、久米、中川、中山等、種々の偽名をもって)自分の文ばかり多く出し、しかして地方の読者が実際地方の事実を報告すると、たちまち例の随筆などを引いてやりこめにかかる。故にそれを懼れまた面倒がりて地方の小学校教員や好事家は手びかえる。よって投書家の数がおのずから制限され来たれば、没書になった連中はこの上買う必要なし、図書館ででも読むべしという気になり、ついに休刊と相成り申し候。(中略)一図に自分の考説のみ多く示さんとせられしゆえ、人々が面白がらず、読者の数大いに減じ候よう存ぜられ申し候。編輯人はただ材料の到達一つでもあらば、それを直ちに来月分に入れて公けにし、読者まだそれに付いて追加もすれば非難もするという風なら大いによかりしなり。しかるに、読者より一文来たるごとに、それに付いて編輯人の意見を付し注釈もしくは駁撃文を読者の文と共に出すこと頻りなりし。さて自分が何たる意見を作り得ぬうちは永々とせっかくの投書を延引して出板(ママ)せぬなり。小生などかようにしてせっかく書きしものが柳田氏の意見と異なる点あるがためにとうとう出ずに仕舞ったもの多し。

 熊楠は柳田が『郷土研究』を自分の意見の発表の場にしており、それに嫌気のさした各地域の人びとの投稿が少なくなったこと、投稿したとしても柳田が自分の意見を追記したり、その文章を出さなかったりしたことが『郷土研究』が休刊となった要因ではないかと述べている。

 この分析はおそらく熊楠が頻繁に投稿していたイギリスの雑誌『ノーツ・アンド・クエリーズ』のような学問空間を理想としていたことから来ている。工藤哲朗さん・志村真幸さん「イギリスの学術空間における日本人アマチュア―『N&Q』の中の南方熊楠と佐藤彦四郎」(『熊楠研究』第18巻(2024年))では、佐藤彦四郎というビジネスパーソンの『ノーツ・アンド・クエリーズ』への投書が検討され、熊楠を含めたアマチュアが参加できたイギリスの学問空間の特色が指摘されているが、熊楠はこのような空間になることを『郷土研究』にも求めていたのだろう。

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Theopotamos (Kamikawa)
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