南方熊楠の『郷土研究』休刊理由の分析
南方熊楠と柳田国男は深い交流があり後に決別したことは知られているが、熊楠はその後にも柳田の編集していた雑誌『郷土研究』に投稿を続けている。『郷土研究』は1917年3月に第4巻第12号をもって休刊となるが、熊楠は『郷土研究』が休刊となってしまった理由を分析している。熊楠が土佐の郷土研究者・寺石正路に1917年2月15日に宛てた書簡から以下に引用してみたい。(『南方熊楠全集』第9巻(平凡社、1973年)より引用。)
熊楠は柳田が『郷土研究』を自分の意見の発表の場にしており、それに嫌気のさした各地域の人びとの投稿が少なくなったこと、投稿したとしても柳田が自分の意見を追記したり、その文章を出さなかったりしたことが『郷土研究』が休刊となった要因ではないかと述べている。
この分析はおそらく熊楠が頻繁に投稿していたイギリスの雑誌『ノーツ・アンド・クエリーズ』のような学問空間を理想としていたことから来ている。工藤哲朗さん・志村真幸さん「イギリスの学術空間における日本人アマチュア―『N&Q』の中の南方熊楠と佐藤彦四郎」(『熊楠研究』第18巻(2024年))では、佐藤彦四郎というビジネスパーソンの『ノーツ・アンド・クエリーズ』への投書が検討され、熊楠を含めたアマチュアが参加できたイギリスの学問空間の特色が指摘されているが、熊楠はこのような空間になることを『郷土研究』にも求めていたのだろう。
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