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「ドライブ・マイ・カー」人生辛いときは粉チをヤーして辛さをマイルドにしよ!
調味料とおかずの境界を曖昧にして白飯をさらっていくのが、桃屋の「辛そうで辛くない、ちょっと辛いラー油」。「普通に生きていたら接点がありそうでない、ちょっとあるかもしれない小道具」によって現実とフィクションの境界を曖昧にし、読む人を物語世界へさらっていくのが、村上春樹。
ピンボールとか。筑波大学の変な名前の学部とか。肖像画家とか。
「ドライブ・マイ・カー」に出てくる「スクリーンを使って多言語で演じる演劇の演出家」も絶妙にいそうでいない、ちょっといそうな職業です。
わたしは村上春樹作品が好きで何冊か読んだことがありますが、読み終わった後に怒っていることが多いです。
主に「こんな終わり方かーい!」という怒りです。紙の本で読んでいると、左手側の残りページの少なさからだんだん嫌な予感がしてきます。まさかこの展開のまま終わるのか?
読んでいる最中はすごく楽しくて、読み終わりは怒っている、なのにまた作品が出ると読まずにいられない、これなーんだ? こたえ:村上春樹!
「ドライブ・マイ・カー」は原作を読んだことがなく、ストーリーを知らないのでまさにその不安がありました。どんな終わり方をするのか。見終わったとき、わたしは怒っている? 怒っていない? どっちなんだい?
以下、ネタバレを含みます。
舞台の演出家であり俳優の男・家福は、妻と穏やかに暮らしていました。幼い娘を亡くしてしまった悲しみを分かち合う夫婦として。妻は主人公のことを深く愛していて、一方で密かに浮気をしていることを主人公は知ります。妻から「帰ったら大事な話がある」と告げられた日、わざと遅く帰宅した主人公は、脳梗塞で急死した妻を発見します。それから数年後。主人公は演劇祭の仕事で紹介された若い女性のドライバーと出会います。娘が生きていたらちょうど同じ年頃です。彼女が運転する車に乗って、主人公は過去と、自分自身と、妻と向き合うことになります。
映画を見ていると、その「っぽさ」に感動します。映像なのに村上春樹の文体が感じられるのです。西島秀俊の話し方、韓国人コーディネーターの少しカタコトの日本語、物語のテンポ感、三浦透子の表情まで。
たぶんですが、長編のストーリーをそのまま映画の枠でやろうとしたら、こんな感じにはならなかったのではないでしょうか。原作が短編だから映画も余白を作ることができて、行間というか空気感を出せているのだと思います。あとは、小説に車種の名前が出てきても車に詳しくなくてぼんやりとしかイメージできなかったのが、映像化されると「ああこういう車か」とわかるのでいいですね。
ストーリーは、映画になるだけあり、「次どうなるんだろう」という展開がいくつもあって引き込まれて見てしまいました。
新婚のように仲睦まじい夫婦の様子、西島秀俊と女優さんだから画面がもつよなーなんて思っていたら、妻おもいっきり浮気してるじゃん!!!というところで「Foooo↑↑」とテンションがブチ上がりました。裏切りというか、予想外でおもしろかったので。
妻が主人公のことを一番愛していたのは本当だと思います。話し方、接し方、仕事への理解と尊敬。主人公が事故を起こした時には息を切らして駆けつけてくれる。愛妻弁当ならぬ愛妻カセットテープまで作ってくれる。寝物語に不思議な話を聞かせてくれるが、昼間は自分が語った物語を覚えていない妻。
ミステリアスで頭の良い美女、しかも自分のことを一番に愛してくれているという、理想の女神像です。
ただ、彼女が聞かせてくれる物語はどこか中年男性感があり(女性が考える物語という感じがなく)、女神はもしかしたらバ美肉後の人格なのかもしれません。
そんな妻が浮気していたのは、もしかしたら岡田将生演じる高槻かもしれないと主人公は気づきます。正確には、高槻が浮気相手の一人かもしれないと。高槻は才能はあるけど、どうやら過去に女性関係で問題を起こしたらしい若手俳優です。主人公とは対照的に、良くも悪くも他人と関わろうとするエネルギーにあふれています。西島秀俊はじめ、この映画の俳優・女優はみんな感情を抑えた話し方をしているのですが、岡田将生だけは役柄のせいか唯一普通の人間のように喋っています。おそらく「身近な誰かを亡くしたことを消化しきれずいる」という設定のキャラクター達が感情を失って見えるようになっているのだと思います。高槻はまだ本当に誰かを失った経験がないのでしょう。不倫相手であった主人公の妻のことさえも、あくまで他人だったのではないでしょうか。
主人公が、自分しか知らなかったはずの妻の物語、しかも自分の知らない続きを高槻から聞かされるシーンがあります。映画中で一番胸糞悪く、胃が痛くなるようなシーンです。大して好きでもなかったくせに! 何これ、マウント? マウントとってるの??
周りが感情に乏しく、みんな当たり前のように多言語を理解する奇妙な人たちの中で、日本語しかわからず感情のままに生きている高槻。この物語の中では異質で、危なっかしくて、今にも何かやらかすのではないかとわくわくするキャラクターです。
実際、高槻が起こしたトラブルによって、主人公が急遽舞台の代役をすることになります。
お前! 女優と寝たあげく、車で事故起こしたあげく、妻と不倫していたあげく、まだいけるのか!! 天井知らずじゃん! Fooooooo↑↑↑!!
主役の代役。演劇ものの作品では主人公が注目されるきっかけとしてよくある展開ですが、実際自分の仕事で起こったらと思うとぞっとしますよね。
代わりを任せられるのはあなたしかいない!やってくれるよね!
担当が急遽飛んでしまってサーバ構成知ってるのがあなたしかいないの! 本番リリースやってくれるよね!!
担当が急病で、資料を一緒に作っていたあなたしかプレゼンできる人がいないの! やってくれるよね!!!
とても「オペラ座の怪人」のクリスティーヌのように「代役? よろこんでー!」とは言えません。
妻との思い出があって避けていた特別な役。かといって舞台が中止となってしまうことを妻は望んでいないでしょう。
主人公は覚悟を決めるために逃避行をします。逃げるためではなく、むしろ進むためにあえて一旦距離をとっているように見えます。物理的にも。そして今という時間からも。
原作の短編が最初に発表されたとき、ドライバーの女の子の故郷について「タバコのポイ捨てが当たり前」みたいな描写があり、舞台となった自治体の議員が抗議して単行本・映画では別の地名になっているそうです。洗練された芸術の場を離れてモラルの低い田舎に来ちゃった感があって良かったんじゃないかなと思うのですが、議員の方はまさにそれがだめだったのかもしれないですね。しょうがないです。
雪に埋もれた実家の跡地を見に行く、というストーリーは他の物語でも見たことがあります。原典がどこなのかはわかりませんが、過去と決別する表現のカノンのように思います。北にある実家に行き、そこにない家を見て、過去を過去だと実感するのです。娘も妻ももういなくて、今抱きしめ合っている亡き娘と同じ年頃の女の子は、自分のことも妻のこともなんだかよくわかってくれているようだけど、結局はたまたまドライバーとして知り合った他人でしかない。ただ、この冷たい孤独感が、主人公の心を叩いて鍛えて、舞台へと向かわせたのだろうと思います。最後の劇中劇で主人公演じるワーニャは「なんてつらいんだろう」と言います。主人公の心情とリンクしているセリフだと思います。孤独なのは、誰かに寄りかかったりせず、自分の足でしっかり立っているからなのでしょう。
映画を見終わったとき、わたしは怒っていませんでした。
ラストシーンの意味について解説記事を検索したりはしましたが、物語の結末としては妥当だったと思います。たぶん本で読んだとしても、心静かに本を置き、お茶を飲み、晩ごはんに何を食べようか考えたりすることができると思います。それで何週間か、何ヶ月かたってまた見返したくなるのでしょう。
何かを劇的に解決して終わる結末ではないので、怒る人もいるかもしれません。
あとはところどころ村上春樹特有の気持ち悪さ(妻の語る物語とか)はあるので、アレルギーの人はだめだろうし、わたしももしかしたらいつかアレルギーが出てだめになるかもしれません。
でもいまのところ、生活をちょっと良くしてくれるいい映画だなと思いました。なかったらなかったでいいけど、あるとちょっと嬉しい。スパゲティにかける粉チーズ。桃屋のラー油。
原作もそのうち読んでみたいと思います。
もし原作が全然ちがう結末で思わずブチ切れちゃうような終わり方をしてたらどうしよう、という新しい不安はありますが。