見出し画像

say enough

ヒトのデフォルト設定〝衣食住〟

育休中をサバティカルタイムとして捉え、衣食住を整える。
つまりは、片づけをフレームワークを駆使しながら終わらせる。

衣食住を整えるということを日々noteに綴りながら、行動につなげていく。
そして、行動をトライ&エラーしていきながら、フレームワークに落とし込んでいきたいと考えている。

頭の中にあるイメージを形にしていく過程での綴りなので、あっちに行ったり、こっちに行ったりと、思考がまとまらないのは、大目に見てもらいたい。

ゆるりと彫刻を削っていくみたいに、石から形を見つけていくようなイメージでやっていこうかと思っている。

ちなみにサバティカルタイムとは、使途用途を決めない休暇のことを指す。

つまりは、旅行に行くための休暇だとか、余暇を満喫するための休暇だとか、もしくは、留学に行く間の一時休暇だとか、そういう具体的な目的があるものではない。

要は、今後の人生を内省し、模索するためのモラトリアム期間のことである。

育児という明確な使途用途があるから、厳密にはサバティカルタイムと呼べるかは線引きが微妙ではあるが、しっかりと育児や家事をしながらも、並行してモラトリアム期間を設けるというスタンスである。

そのモラトリアム期間において、ここで一つの仮説を立てたい。

衣食住〟を整えることで人生は変わるのか?

ちなみに英語で衣食住とは何て表現するのだろうと調べてみたら、

〝food,clothing and shelter〟

となるそうである。


頭文字をつなぐと、FCSとなる。

〝衣食住=FCS〟

衣食住の語順のままに並べてみると、CFS。

日本と順番が違い、食が一番はじめにくるのは、中でも食が一番重要であるという考え方からとのこと。

サバティカルタイムを通して、この衣食住を整えることで果たして人生は変わるのかを一つのテーマとしていきたい。

今現在の希望的観測としては、「イエス」といいたい。

衣食住を整えることで、なぜ人生が変わるのか?

これをサバティカルタイムの間で底の音が聞こえるまで深堀りしていきたい。

衣食住を整えるとは、要は片づけとか、断捨離とかシンプルライフとかミニマムライフとか、ウルトラライト、言い方はそれぞれあるが、根底は全てをシンプルにということである。

Less but better

とか、

Simple&Smart

というやつである。

かのレオナルド・ダ・ヴィンチもこう言っている。

〝Simplicity is the ultimate sophistication〟

つまりは、

〝シンプルさとは究極なまでの洗練である〟

また、ヘンリー・D・ソローもこう言っている。

〝シンプルに。シンプルに。シンプルに。することを二つか三つに絞るのです。百や千では多すぎます。百万ではなく、半ダースで十分です。〟

衣食住を整えることで、実際に自分の人生が変わるのでなければ、自分がこうしてnoteを書く価値などないと思っている。

まずは変わると信じること。

そこから、根本的にすべては始まっていくと考えている。

仮説検証

わたしは衣食住とは、ヒトの基本的な要素であると思っている。

そんなのは、当たり前すぎて何も目新しさはないように感じるが、この部分があまりにも当たり前すぎるがゆえに疎かにしすぎているのではないかというのが、本noteを書く際に仮説として浮かんだのである。

その仮説が冒頭で書いた「〝衣食住〟を整えることで人生は変わるのか?」ということである。

ここで、書籍『星の王子さま』(サン=テグジュペリ/岩波書店)を引用したい。

地球で出会ったキツネが王子さまにある秘密を教えてあげるシーンがある。
その秘密とは、

心で見なくちゃ、ものごとは良く見えないってこと。かんじんなことは、目には見えない

また、著者であるぼくと王子さまの会話を続けて引用したい。

きみの住んでるとこの人たちったら、おなじ一つの庭で、バラの花を五千も作ってるけど、……じぶんたちがなにがほしいのか、わからずにいるんだ

だけど、さがしてるものは、たった一つのバラの花のなかにだって、すこしの水にだって、あるんだがなぁ……

だけど、目では、なにも見えないよ。心でさがさないとね

たいせつなことはね、目に見えないんだよ……

自分の現在の衣食住が置かれている現状を見たら、星の王子さまは上記のように言うに違いないのではないだろうか?

あまりにも多くのモノ、モノ、モノ、選択肢や情報に溢れており、肝心の本質が見えなくなってはいないだろうか?

足すのは、かように簡単なのに、減らすってテクニックを要する。

そして、肝心かなめの本質は足せば足すほどに見えづらくなってくるときている。

ここで、また仮説である。

衣食住を整えることは、予防医療につながるのではないだろうか?

つまりは、ダイエットも出来ちゃうんじゃない?

衣食住を整えることは、死へと向かう存在であるヒトにとって軽やかさを与えてくれるのではないだろうか?

明らかに使わないモノやカラダの負担になるような食べ物を食べきれないのに冷蔵庫や冷凍庫がパンパンになるほどに詰めに詰め込む。
そんな重い荷物を背中に背負ってカラダを酷使して、人生を駆け抜ける。

そして、死ぬ前になって、モノや食べ物で溢れていることに気づき、残された家族にその要らないモノの片づけを託す。

衣食住を整えれば、そんな重荷から解放される。

衣食住〟を整えるということは人生を変えるような力があるのではないか?

そして、その人生を変えるというのは、ひいては予防医療につながったり、日本の人口のボリュームゾーンである団塊の世代がこぞって後期高齢者へと向かっていき、逆に少子化に歯止めが効かない現代にあって、高齢者が残された家族への負担を軽減しながらも、軽やかに死へとゆっくりと向かっていけるようなマインドを育てる。
このような可能性を秘めてるように思うのである。

高齢者だけにとどわらず、どんな年代の人にとっても、衣食住を整えることは、すべてに通じる道の始めに来るのである。

人生が変わるというのは、色々な方向に向かって変化が及んでいくことなのであろうが、一要素として、予防医療的な側面から、またヒトは誰しもが死へと向かっていく存在として、衣食住を整えることで自分の健康を自分で守れるようになるというのは、一つの強みになるのではないだろうか?

ということを一医療従事者として考えるわけである。

衣食住を〝シンプル&スマート〟にする。

これを予防医療と死という視点からも論じてみたいのである。 

そして、フレームワークとして形作って、汎用性のあるものとしていきたいと考えている。

人生が変わるとは?

まず、人生が変わるとひとくちでいっても、そもそも人生が変わるというのは、かなりぼやっとした抽象的な表現なのである。

書店に行くと、「人生が変わる~」というタイトルの本がいたるところにある。

それほどまでに、自分を含めてであるが、大多数の人が現状を変えたい、今現在置かれている場所に不満がある、今よりもより良いものとしたい、人生を変えたいと思っている。

そういった証左として、書店の本のタイトルにその願望が表れているのであろうと推測する。

つまりは、需要があるということである。

して、その人生が変わるということの定義であるが、捉え方でいかようにも千変万化、その人がどう思うかで解釈は自由自在なのである。

それをどういう風に捉えるかで、いくらでも発想は無限大のように感じるフレーズのように思う。

例えば、先日家族で夕食をともにしていた折に、〝人生が変わる〟というのは、定義というものがないわけであるが、何をもってして、変わったと言えるであろうか?という話題になった。

妻は、職場を変えるとか、結婚とか、引っ越しとか、そういった外的な要因を人生が変わるということの認識として持っていた。

わたしとしてはそんな夕食時の些細な会話のなかで出たひとつの答えとして、たまたま季節の旬のものであるとうもろこしを今年は例年になくたくさん食べている自分に気づき、何も大それたことである必要はなし、ちょっとした事でもいいよねっていう気づきを得た。

旬の食材の美味しさにふとしたことで感動できる。

これも人生が変わるとしてもいいのだという発想である。

育休中において自炊をする機会が抜群に増えたことで食に意識が向いたこと、それにより旬の食材を意識するようになったということ、それにより今が旬真っ只中のとうもろこしの美味しさを再発見するにいたり、過去一と言っていいくらいに食べる機会が増えたということ、これ一つ一つ取ってみても、とてつもなく些細すぎるが、人生変わったとも捉えることは可能だよねという帰結に至ったわけである。

このように汎用性が無限大とも捉えられるフレーズだからこそ、その効果を最大限に活用するためには、自分自身でこの〝人生が変わる〟という言葉をどのように捉えるか、どういったフレークワークの中で使うか、どう規定するか、何をもってして人生が変わるのかということを決めるしかないのである。

他人がものさしで測るものでもなく、あくまでも自分が決めるもの。

自分が変わったと感じられるならば、それがどんな些細な小さな事でも、それは変化なのであると思う。

そうすると、〝人生が変わる〟というのは、一旦は自分で枠組みというか、目的地、終着地点みたいなものを決めておいたほうが定量かつ定性的にすとんと自分で腑に落ちやすいように思うので、ここで自分なりに勝手に定義を作っておいたほうが、道に迷いづらいと思うわけである。

わたしなりに考えた〝人生が変わる〟ということの定義であるが、

それは自分の価値観というか、アイデンティティがはっきりと明確化され、それに基づいた行動をとり、その行動が自分以外の他者にとって、好影響を及ぼしたときであるとしたい。

これが今現在における自分なりの定義なのである。

これは、これからnoteで綴っていくなかで、ブラッシュアップされていったり、追加されたり、または微妙に変化をしていくかもしれないが、コアの部分は変わらないと思う。

ここで、この定義のコアに据えるべきものとして、ニーチェのこの格言を引用したい。

なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える

書籍『夜と霧』において著者のヴィクトール・E・フランクルはこのように述べている。

私たちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ

生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。

生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない

世の中や人生が自分に何かをしてくれるのを期待するのではなく、自分から出てくる「なぜ」生きるのかということの問いに真摯に向き合っていく姿勢こそ、どのような状況に置かれても、地面に根を張りめぐらし、太い幹を作り、どんな強風が吹き荒れようが、ぶれないような芯を作るのである。

サバティカルタイムの終わりには、自分自身が人生における「なぜ」に対して揺らぎなく答えられるようにしたい。

このnoteは、読者のみならず、自分自身に向けても人生を力強く生きていけるように励ます意味も込めて、かつその仕組みを構築していくために書いているのである。

先にも述べたが、実際に人生が変わるのでなければ、自分がこうしてnoteを書く価値などないのである。

自己紹介

ここまで、長く書いてきたが、自己紹介をしそびれていた。

遅ればせながら、自分が何者であるのか、自己紹介したい。

わたしは脳神経外科病棟で一介の看護師として働いている。

そして、現在は第2子が産まれたのを契機に1年間の育休を取得し、今その過程にいるのである。

第1子が産まれた時は知識不足、それは言い訳であろう、意識不足により、男性が育休を取ることなんて考えもしなかったのであるが、第2子の妊娠を機会に制度について知るにつけ、育休を取ることを決意した次第なのである。

そして、この育休のメインテーマは当然だが、子供の育児にあたること、そしてこれまで疎かにしていた家事を率先的に行うことで、筋トレのように家事筋を太くするということである。

加えて、それとは並行してマルチバース的なものとして、育休を〝サバティカルタイム〟として捉えていこうというのが、別テーマとしてある。

このサバティカルタイムのなかで、衣食住を整えることで人生が変わるためのフレークワークを構築したいと考えている。

元々、家の中がゴミゴミしているのが好きじゃなかった性分もあり、育休を取る前にも家の中のノイズを減らしたいという思いから、いらないモノをゴール設定することもなく、また明確なコンセプトもなく、ただ闇雲に手放すことを行っていた。

そのため、家の中はそこまで散らかっているわけではないものの、手前味噌的にゴールなき片づけを行った名残りがそこかしこにあるのである。

そんな中、育休に入ったことで、自ずと1日の大半を過ごしている家という環境のこれまで目に見えなかったというか、目をあえてつぶって見過ごしてきた部分が、否が応でも視覚として感知するようになってきたということで、育休前に行ってきたモノ減らしが第1次だとするならば、今回は第2次モノ減らしということで、徹底的にやってみようと思い至ったわけである。

わたしにとって衣食住を整えるということは、はじめは只々単純にノイズを減らしたいということであったが、行動を続けていくうちに、じわりじわりと定義が出来上がっていくのを実感している。

衣食住を整えることは、単なる家事にあらず、脳を変容することで、マインドがガラッと変わり、引いてはそれが習慣となり、それが連なることで人生が変わっていく可能性を秘めているのではないかという仮説が生まれたのである。

家の中のあるモノをある場所からある場所へとノイズが減るように場所を変える、絶対数はそのままで綺麗に理路整然とさせるというよりも、まずは徹底的に絶対数を減らすこと。

そして一つ一つのモノの帰るべき置き場所を決めてあげる。

この2つが幹となり、あとの細かな枝葉の部分で修正を重ねていくイメージである。

例えば、衣食住の〝衣〟をとってみると、
朝起きてクローゼットの前に立ち、2.5秒程度で迷わずにその日に着る服を選べるとか、季節に応じて畳んでしまい込む手間もなく、ハンガーにかかるモノだけでほぼ1年を通して過ごすことができるとか、脱いだ服を床に置きっぱなしにせずにしっかりと所定の住所に位置させる、この程度まで納得できるくらいに減らすことを整えるといっている。

また、〝食〟であれば、冷蔵庫や冷凍庫の中身や食材や調味料の場所を目をつぶったままでも、諳んじることが出来るくらいに把握しているとか、買い物にいって、ダラダラと1から10まで商品を見るのではなく、買うべきものが明確であり、それ以外は見向きもせずに買い物が出来る、有り合わせのモノでレシピ本やサイトを見るまでもなく、ブリコラージュ的に即興で料理を作れる、このような具合を〝整える〟とわたしは表現しているのである。

わたしは3次救急に対応する医療機関の脳神経外科病棟の看護師として、患者に向き合う中で、心の中で「予防医療と死」について考えるともなく、考えるようになっていた。

しかし、日々の忙しい業務の中で、その心の中に浮かぶ考えとじっくりと向き合うことが出来ず、自分の中でそれを秩序立てて、言葉にすることが出来ずにいたのである。

育休中をサバティカルタイムに見立てることで、自分の中でぷかぷかと浮かんでいたそうした騒然としていた思考をひとつひとつ、すくいあげていく中で、〝衣食住を整えること〟と〝予防医療と死〟が面となって、浮かび上がってきているような予感がするのである。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集