落選。動機と実際に書かれたもの、伝わったこと。
初挑戦した新潮に落ちた。一次通過でおわり。二年かけて書いた250枚、2021年の太宰最終のふた周りは達成した、マイルストーン的な作品になった手応えがあった。だから最終の連絡を当たり前のようにまっていた。
落選が確定したのは成田空港だった。携帯を成田のジェットスター発券機の上にわすれ、北海道に飛んでしまったからだ。最終連絡があるはずの日は富良野から小樽まで200キロ、豪雨の中ドライブしていた。いやー楽しかった。けどそれは別の話。
成田空港の別室で携帯をうけとり、ひらく。
着信ナシ。
はい落選したので、アクションだ。
なにをするか。次を書く?
いや、noである。
落選は失敗である。失敗なのだから、まずなぜ落ちたのかをあきらかにし、具体的な再発防止策を打たなければ、また同じ失敗をする。
自分がOK出した作品が落ちたということは、見えていないものがあるということだ。
では、人に読んでもらおうと何名かに指摘のために読んでほしいと依頼をした。
創作教室ならレビューをうける機会もあるだろうけど、教室用に作品を書く時間がないのでその類には通ったことがない。
依頼するのは小説や論考を書かれる方々なので時間をうばうことが申し訳なく、今まで下読みをお願いしたことがなかった。そして未公開原稿は大切なもの。ではあるが、今回はこれを超えないと殻が破れないと判断して、頭を下げてお願いした。
作品をよくするために必要なことはすべてやらなくてはならないから。
結果、基本的にはよい評価が多かった。作品が伝達するテーマに穴があることを見抜く鋭い考察。校正観点で見えていなかった瑕疵の指摘。人物への強い共感。絶賛されつつ賞とのアンマッチを指摘される方。差別化のためにここをオリジナリティのある軸にしてはどうかと指摘いただいた方。また、女性から現代の描写として違和感なく読んでいただけたことも大きかった(ありがとうございました)
いただいた言葉は、作品を内面化してしまっている自分の眼差しからは、見えてこないものだった。
外からの声の全てが正しいわけではない。
が、このように伝わったという事実は、大切だ。作品から伝わったこと、それが芸術の全てだから。
(誰が書いたか、どんな思いがあったかといったことも作品を味わう助けにはなるが、つきつめればゴシップである。それが作品の評価を左右してはいけない。(まあ現実には多くの場合、人で作品は読まれ、売られるのだけど))
いただいた言葉をすべて一覧にして、一つ一つを精査した。
自分の作家性を軸に置き、作品構造を強化し、本当に伝えたいこと、作者も気づいていなかったこの「作品が伝えなくてはならないこと」を、より効果的に表現するためには、どうすればよかったのか。なにが不足していたのか。なにを間違えていたのか。
小説を書く動機は、突き動かされるような書かなくてはならないという思いだ。
それは当然、作品に書かかれる。
しかし実際に書かれた小説が伝達するものは、必ずしもそれとは一致しない。
1 作者が、どうしても書かかなくてはならないこと
2 作家にとって自明のこと
3 作品構造上、書かれなくてはならないこと
そのまま書いてはいけないこと
4 実際に伝わったこと
1がなければ小説は書けないが、1の熱と2に寄りかかって、3に不足/過剰があると、4は失敗する。
まとめるとこういうことかなとおもう。
反省はここまで。
二年ぶりの応募で、純文学最難関の一次はこえたのだ。初期衝動のあとも作品を書き上げるという課題はクリアできたし、太宰でうけた批判の多くも改善できた。内容は候補や入賞した過去作よりはるかによい。
次である。次はすくなくとも今回よりはよくなる。
それを繰り返していつか水準をこえる可能性を高めていく。
このようなプロセスの全体と、継続する力もまた、作家に必要な才能なのだろうと最近思う。