岡田麿里「さよならの朝に約束の花を」
「おはよう」、「ありがとう」、「いってきます」、「おかえりなさい」。
誰かと日常を重ねること、言葉を交わし続けること、それができることの重みをひしと感じる岡田麿里渾身の物語。この物語を紡ぐために選りすぐられたアニメーションが時を奏でる。
片渕須直が「生活」の作家であるとするのなら、岡田麿里は「日々」の作家であるのかもしれない。
いや。自分にはこの作品にあらためて言葉を当てはめることはかなわない。たとえ「凄い」だとか「素晴らしい」といったものでさえ。
そう思う思わないということではない。語れない、語りたくないということでもない。自分には語る資格がないと思われてならない。
安易に口にする、自らの思考のなかに押し込めて安直に理解したフリをしてしまうことが、半ば自動反射のようにしてしまおうとしている自らの頭が許されてはならないと思えてしまう。
物語とは破壊的だ。あまりに。何でもないところに物語は生まれない。何でもないものが否応なしに変化に晒されて、初めて物語は始まる。そして変化したものは決して戻らず、失われたものは甦らない。
それは痛切か。いや必然であり、ありきたりな現実に過ぎない。
岡田麿里の物語の男は、いや男たちはきっと、一瞬のその失われた時を求めて永遠に焦がれ、岡田麿里の物語の女は、いや女たちはきっと、動き始めた時の歯車とともに生きる。
そう、生きようとする。そうせねばならないように。押し潰されてしまわないように。
それは「強さ」なのだろうか。少なくとも男たちにはきっとそれが「強さ」に見えることを岡田麿里は知っている。
でも本当はただただ必死で、傷だらけになって、涙をこらえて、それでも前を向かねばならないから前を向いているだけなのではないだろうか、そうしてでも日々を送らねばならないのだ。
私にはわからない。わかる気もしない。わかったフリも到底できる気はしない。しかし確実に、そこでは彼女たちの傷と痛みにうずき続けるあまりに温かい心臓がナマの鼓動を刻んでいる。ああ、彼女らは生きているのだと感じる。血にまみれながら時を刻む女たちの魂がそこにある。
それは永遠に理解など出来ない貴女の世界。近くて遠い此方の彼岸。いつか一緒に見たはずの約束の花なのだ。
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