クレール・ドゥニ「美しき仕事」(ハーマン・メルヴィル原案)
舞う女たち。口説く男たち。彼らを尻目に憂いを帯びるドニ・ラヴァン。
計略の末に横たわる男。片手には銃。脈打つ血管。それは死の暗喩。
まるでそれまでの荒涼とした風景と打って変わり、誰もいないフロアで孤独な男が踊り出すとき、それは解放のリズム。そして死の舞踏だ。ありのまま一人で踊るダンスは報われない魂の悲痛なる叫びである。
叶わぬ現実に抑圧された心はピンポン玉のように悪意を弾き出す。その悪意は無垢なるものに降りかかる。人は愛に狂い、悪魔はささやく。そして悪には罰が訪れる。
だが、もしかしたら、罰こそが誰にも敬われず、見て欲しい人に見てもらえない、行き場のない人間の唯一の救いであるのかもしれない。彼の策謀が露見して本国へ帰されるときだけは、確かに新兵たちも、部隊長も、全ての人たちが彼のことを見てくれているのだから。
果てしない砂漠の風景、限りない海、延々の石と砂、多種多様な若い男たち、遠目で眺める現地の人たち、終わりのない訓練、見えることのない目的、少なくともまるで簡素なスケッチと独白的日記というイメージによるポエトリーの積み重ねがもたらす、ある男がたどる顛末はまるでそこに一つの解放を見ている。ある種、人間性の解放を。
おそらくドニ・ラヴァンは死んだ。それは身体のことではなく心のことだ。己の無慈悲な行いの対価として、想い人も居場所も失って。しかしそれによってまた彼の魂は解放されるのだ。
アフリカのどこか、フランス外人部隊による軍事教練。隔絶された空間と閉鎖的な関係。中年の教官と、彼の慕う部隊長、そして美しき新兵。何が彼を狂わせたのか。いや始めから彼はもう狂っていたのかもしれない。決して報われない気持ち。埋まることのない距離。きっとわからないだろう。美しく純粋なものを前にして醜く不純な己に焦燥し憂いてしまうこの気持ちが。
きっかけはなんでもよかった。いやそもそもきっかけを探してさえもいない。本当はこのままでよかったのだ。きっかけは降って沸いてきて、図らずとも思いついてしまうもの。そう、コンパス。
ドニ・ラヴァンは思いついてしまった。部隊長と自分との間に立つ目障りなその男を排除する方法を。自分にない全てを持つような彼を目の前から消す方法を。
可能性があれば実行してしまう悲しい生き物。それが人間なのかもしれない。どこまでも寂しくどこまでも利己的。
それはきっと、故郷から遠く離れた土地だとしても、限られた人間関係だとしても、心身を追い詰める画一的な訓練だとしても、すなわちいわゆる人間性を奪われかねない環境だとしても、決して消えず、いつまでも残り続ける魂としての本性。
それをクレール・ドゥニはあらゆるシーンのスケッチのなかでも描いているだろう。男たちは女を口説く。訓練が終われば裸で戯れる精神は子供の新兵たち。あるいはラマダン。ボロネーゼを食べさせるイタリア人。そして持ち場を離れた黒人兵に度を超えた罰を与えたドニ・ラヴァンは彼を助けようとする別の黒人兵に叫ぶのだ。
「お前はアフリカ人じゃない。フランス外人部隊だ!」。
まるで踏み潰されても伸び続ける麦のように。魂、あるいは人格、生まれ、きっと男が男であることから彼らは逃れられない。
だからドニ・ラヴァンは決行する。それは思いを言えない、叶えることのできない、溜まりに溜まった心の抑圧がバネのように弾き飛ばすふとした悪意。
ままならぬ生は必ず自らに淀みをつくる。淀みはふとした拍子に吐き出される。きっと自分でも思いもよらないかたちで。誰かが誰かを思うほど、時としてそれは暴力的なまでに。
では果たして本当にそれは悪なのだろうか。確かに実行には対象があり、犠牲者が出る。まさしく暴力だ。だが映画は確かにドニ・ラヴァンがその計略を思いついてしまった段階からそのメリハリを増してサスペンスは加速する。
語弊を承知で言えば格段におもしろくなる。スケッチとは心情だ。教官として自らを統制するドニ・ラヴァンが打ち明けられない想いを吐露する秘密の部屋だ。
アフリカの風景と共振して、静謐で、それゆえに荒廃している。だからこそ無機質で暗がりにミラーボールが輝くダンスフロアは彼だけの独壇場だ。そこには気にすべき新兵も、部隊長もいない。もはや彼を咎めるものも彼を律するものも誰もいない。
踊ることのなかったドニ・ラヴァンが踊る。自由だ。圧倒的な自由。それゆえに悲しき自由。クレール・ドゥニは静かなる93分の間に、抑圧されながら他者との関係で成り立つ不自由の中にこそ人間は存在できて、誰もいない誰にも縛られない孤独のなかでしか人間は自由になれないのだということを証明する。
誰にも真似できないような突き抜けて爽快なドニ・ラヴァンの舞踏は、それゆえに圧倒的な孤独と絶対的な自由をスクリーンに刻むのである。