硯考 すみすりの効用
すみすり
すみすりとは墨を磨ることである。書を書くという道は「すみすり」から始まる。しかし現代において,この伝統的行為はとくに一般の人びとの間では墨液の使用によってその姿を消しつつある。
古来,中国で墨が生まれ,千年を超える長い歴史の中ですみすりは書の中心的な行為の一つであったといえる。静かな環境ですみすりを行うことは,書を書く前に精神を静め集中しやすくするためなどと説明されてきた。実際にそのような効果があるかについては、個人的な経験として確かに感じ取ることができる。ではその効果とは果たして何であろうか。私たちはすみすりをやめてしまったことで何か大事なものを失ってしまったような気がしてならない。この問いについて科学的な知見も踏まえながら考察したいと思う。
精神の自由による発想
北宋の文人,欧陽脩(おうようしゅう)(1007〜1072年)が書いた『帰田録』の中には
「余,平生作る所の文章,多くは三(さん)上(じょう)に在り。乃ち馬上・枕(ちん)上(じょう)・厠(し)上(じょう)なり」
とある。文章を練るのに,最も都合のよい三つの場面は馬に乗っているとき,寝床に入っているとき,便所に入っているときだと言っている。
この三上について外山滋比古は『知的創造のヒント』 のなかで
「精神を自由にするには,肉体の一部を拘束して,いくらか不自由にするほうがいいらしい。」
と述べている。よい発想を得るには完全な自由より,拘束されながらも少し身体を動かしていたほうがよいというのは,すみすりの周期的動作と一致している。つまり,すみすりは精神を自由にし,その後に続く創作活動に対して発想を生みやすい環境を整えるという効果が期待される。
注意残余の防止
私たちは何か作業をしているとき,途中で手を止め,新たな作業に移ってもやり残した作業が気になって生産性が上がらないということがよくある。注意残余とは先に取り組んだタスクを引きずることで次のタスクへの意識や集中が阻害されることをいう。
ソフィー・ルロイが行った研究『なぜ,仕事をするのが難しいのか?仕事のタスクを切り替えるときの注意残余の課題』によれば,人はあるタスクについて考えるのことをやめないと,別のタスクに完全に注意を移して,よいパフォーマンスを発揮することができないという。実験結果からは,人はまだ途中のタスクから注意を移すことが難しく,その後のタスクのパフォーマンスを低下させていることがわかった。
人間の脳というのはタスクごとに急に注意を切り換えることができないのである。これは煩わしい日常生活の中で書作を始める場合にも同様であり,急に書作を始めたとしても脳の切り替えができず,思うように実力が発揮できないといった状態を生じている。つまり,すみすりという準備段階(インターバル)を置くことが脳の切り替えをスムーズに行い,注意残余によるパフォーマンスの低下の防止につながるのである。
歴史の追体験
私たちは歴史をどのように学んできただろうか。これまで歴史は教科書での知識として学んできた。歴史は学者なりが編集したものでり,それを受け身で学び取った知識となっている。このような知識は情報であり,我々の経験とはほとんど関係がない。つまり、主体的に体験した歴史認識にはなっていないのである。
これに対し体験学習というのは,実際の歴史遺跡,遺産に触れ,体験することによって歴史というものを自主的に認識するものである。歴史認識は体験によって深まるものではないだろうか。
イギリスの哲学者,歴史家R.G.コングリウッド(1889-1943)は歴史認識の問いに対して追体験理論 を提唱した。この追体験理論では歴史的行為者の行為の思考を再思考して追体験し,自ら辿ることによって歴史的知識を獲得することができるというものである。
追体験的な歴史学習は何をもたらすのだろうか。歴史との直接的な対話によって行為者の思考を再思考することは,学習者自身の主体的な認識を促すことになる。思考から自分のものとして学びとることによって認識へと繋がるのである。
すみすりは古人(いにしえびと)の行った所作の歴史的追体験であるといえる。私たちはこの所作から彼らが考えていたことを再思考している。そこにはどうやれば美しい墨色がでるのかといった共通の目的があり,古人と同様の思考をたどることが可能である。自ら学ぶことによって,古人と同じレベルに達しようとするのである。つまり,そこに達しない限りその先へ進むことができないことを意味している。「百尺竿頭に一歩を進む」ことができないのである。
このように三つの視点からすみすりにおける効用について考察してみた。その結果,従来から言われている精神を静めるということだけでは言い表せない優れた効用が隠れていることが明らかとなった。これらは単なる精神論として軽視することはできないだろう。すみすりは書作の上では重要なプロセスの一つであり,また有益なものである。この伝統的な行為がいかに大切かということについて,もっと見直されるべきではないだろうか。今後,すみすりをより多くの人びとが経験し,書作の歴史の追体験をされることを期待してやまない。
みなさん、墨を磨って書を書いてみませんか?
きっと新しい発見がありますよ。
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