そろそろ会社で幸福の話をしよう #003「Historical Background」
まずは前回のハイライト。
「幸せ」を、以下の4つの視点から考えてみる。
・主観的幸福(快楽・満足・達成)
・客観的幸福(環境要因:教育や医療の受けやすさ等)
・自身がそう思ったもの
・自身がそう決めたもの
会社で、幸福という概念の理解を広げるために、上記のTipsを使ってみる。
反応はというと、割といい。
特に嬉しかったのが、「幸せを「感じる・意識する」ようになった」という意見。「4つの視点を意識することで、自分の幸せについて考える時間が少し増えた」という社員がいた。
ただし良いことばかりではない。話をしたメンバー(あくまで少人数だが)のリアクションには、まだまだ「怪訝」が含まれているw
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ということで、次の補助線(=理解を広げるためのTips)を考える。怯んでいる場合ではない。なぜなら僕は腹を括っているのだから。
今回は、以下の内容を参考に、幸福という言葉の歴史的な経緯について学んでみた。
山田洸 (1989). 言葉の思想史――西洋近代との出会い―― 花伝社 より
・本書は、色々な日本語の歴史的な経緯を論じた論考を集めた論文集。
・幸福が「happiness」の訳語とされたのは、明治維新以降。明治以前は、幸福や不幸という言葉は「めぐり合わせ」が良いか悪いかを示すものであった。要するに明治以前の幸せは、「自分から求めて得られるものではなく、天なりお上なりから与えられる運勢といった意味」で、自分が求めて得るものといった意味の「幸福」ではなかった。
・「さち(幸)」や「さいわい」という言葉も同様で、これは海や山でとれた獲物のことがそもそもの意味で、そこから、獲物を取った人に豊かさをもたらすものといった意味合いへと転じていった。
・こう考えると、日本語における幸せとは、自分のコントロール外で生じる、受動的な要素の強いものがその含意にあったと言える。そのため、福沢諭吉や西周など、当時の西欧の考え方を積極的に学んでいた知識人たちも「happiness」の訳語に幸福という語をあてることには慎重だったようで、僥倖(ぎょうこう:偶然に得るしあわせ)として与えられる幸福と、追及して得られるような幸福とを区別していた。
・大正期の自由民権運動の中では、そうした西欧由来の幸福も国民の権利として積極的に位置づけようという機運も見られたが、昭和の国家主義体制の確立の流れの中で、そうした幸福の追求は自己中心的なものと見られて、否定されるようになっていった。この中では、あまり欲を追求せず足るを知るべきといった幸福観(ただしこれは明治期以前から存在していた幸福観ではある)が支配的になった。
・戦後に個人の幸福といった観点に再び焦点が当たるようになり、日本国憲法でも十三条で幸福追求権が保証された。
【学び - その1】
日本古来の幸せは、「自分から求めて得られるものではなく、外から、偶然に得るもの」というイメージが強めであるということ。
一方、西欧由来の幸せは、「追求して得られるもの」というイメージが強めであるということ。
なるほど、幸福とhappinessをシンプルに言い換えるのは、今後やめておこう。同じようで違う、その違いが今回分かった。
【学び - その2】
歴史的な背景も影響し、日本における幸福の意味は、時代と共に柔軟性を帯びるようになったということ。
以下、①時期 - ②ポイント(③柔軟性の変化を表す割合)の順でまとめてみた。なお、割合は完全に僕の感覚レベルのもの。
①明治以前 - ②自分から求めて得られるものではなく、天なりお上なりから与えられる運勢といった意味(③受動:能動=10:0)
①大正 - ②西欧由来の幸福も、国民の権利として積極的に位置づけようという機運があった(③受動:能動=8:2)
①昭和 - ②幸福の追求は自己中心的なものと見られて、否定されるようになった(③受動:能動=9:1)
①戦後 - ②個人の幸福といった観点に再び焦点が当たるようになり、日本国憲法でも十三条で幸福追求権が保証された(③受動:能動=7:3)
※ 受動=「自分から求めて得られるものではなく、外から・偶然に得るもの」 ※ 能動=「追求して得られるもの」
こうして見てみると、日本における幸福の意味の移ろいがよく分かる。
【学び - その3】
そして最大の学び、それは「幸福追求権」の存在。上記のような歴史的経緯の中で生まれた権利であれば、もう少し大切にしたいなと。よって、今回を良い機会と捉え、掘り下げて考えてみた。
憲法には幸福追求権が国民の権利として位置付けられている。ただし、いまだに「過度な幸福を追求せず分相応に生きるべし」という価値観が支配的なように思う。これは一見すると正しい主張のようにも見える。確かに人を踏みにじってまで自分の幸福を追求することの是非は議論があるところだとは思う。しかし、外野が当人に向かって「欲を追求せず足るを知れ」と言うのも、やはり他者の権利を踏みにじる行為であるように思う。とはいえ、幸福を追求することが、日本社会では自己中心的に見えがちということは、裏を返せば、日本社会が「幸福を追求する」という思考自体を追求しにくい社会でもあるということだろう。幸福追求という話になると、なんだか「がめつい」感じがして、思考停止になると言うか。そういう規範があると、結果として憲法の理念も実はきちんと消化できないままになってしまうだろう。実際、僕も憲法の幸福追求権をきちんと考えたことはなかった。
そういう意味では、「幸福追求権」というストレートな言葉で真正面からぶつかるよりも、「どういう幸福をどういう風に追求するか」、自分の思いや他の人の考えについて見渡してみるのがまずは大事なのかもしれない。
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今回は、幸福という言葉の歴史的な経緯について考えてみることで、以下の3つの学びがあった。
・幸福とhappinessの違い
・日本における幸福の意味の移ろい
・幸福追求権の存在(ただし深めの洞察が必要)
これらを新たな補助線(=理解を広げるためのTips)として、明日から早速展開してみようと思う。会社で、少しでも幸福概念の理解が広がることを願って。
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