「無敵のヒーロー」物が今なお面白い理由
「チート主人公」なる単語が出て久しいものだ。その言葉の定義はさまざまだが、少なくともその中に往年のヒーローを含めて議論される場面に出くわした覚えがない。
映画やテレビでシリーズが続き、毎度登場すれば必ず勝てる……そういうヒーローは古くから王道として親しまれ、多様な主人公像が発案された現代においてもその魅力は色褪せない。そういうフォーマットの作品を私は「無敵のヒーロー物」と称している。
今回はそんな「無敵のヒーロー」が心を掴んで離さない理由を、私なりに分析してみた。
1.「どうやって勝つか」への好奇心
第一の例として「プレデター」を見てみよう。本作はシュワルツェネッガーをはじめとするツワモノどもが次々と謎の怪物・プレデターに殺されてゆくという筋書きだ。公開当初は予測不能なホラーとして機能していただろうが、今となっては「どうせ最後はシュワちゃんが勝つでしょ」という安心感の方が強い。
だが実際に見てみると、そんな余裕が吹き飛ぶほどプレデターが恐ろしいモンスターであることが分かるだろう。なにしろ1個分隊でゲリラの基地を壊滅できるようなコマンドー並みの連中が、手も足も出せずに一人ずつ抹殺されてゆくのだから。そんな化け物を相手にシュワはどうやって勝ったのか?ここが今見ても十二分に面白いと感じるミソなわけだ。
ちなみにこの「どうやって」を明かしていく展開は、ミステリーでは「How done it」(ハウ・ダニット)と呼ばれている。「無敵のヒーロー」物とは、強敵を倒す解を見つける一種のミステリーだと言えよう。
2.そもそも「無敵」は一側面でしかない
第二の例として「ニンジャスレイヤー」を見てみよう。ニンジャスレイヤーといえば、立ち塞がる敵ニンジャを風のようにバッサバッサと切り倒していく痛快娯楽小説というイメージが強い。
一見なんの苦労もなく敵を倒しているような話も多いが、そうした話は大抵、他者視点による話の場合が多い。たとえば「キルゾーン・スモトリ」では、主人公のニンジャスレイヤー(フジキド)ではなく、とある一般人からの目線で物語が進む。肝心のフジキドの登場は終盤であり、そこからアッサリと敵を倒してしまう。フジキドにしてみれば呼吸同然の日常だが、他者目線からはこれが鮮烈な非日常として映るわけだ。
本作の第一部にはこうした群像劇的な話が多く、ニンジャスレイヤーに対して完全無欠のヒーローという印象を持ちがちだ。しかしこれはフジキドのほんの一側面を切り抜いただけに過ぎない。
実際、フジキドやその仲間たちに焦点が当たり始める第二部以降は、そんな彼が強敵に苦戦し、葛藤する場面も多く見受けられるようになってくる。
我々の現実世界にも、天才と持て囃されるカリスマは多く存在する。だがその裏で血の滲むような努力や惨めな失敗を、彼らが重ねてきたことはあまり知られていない。同様に空想のヒーローも知られざるバックボーンを抱えており、そこからにじみ出る深みが読者の心を掴むのだろう。
終わりに
以上が私なりに考えてみた「無敵のヒーロー」の魅力だ。いろいろと理屈を捏ねてみたが、最後はやはり瞬間的なエモーションが人の心を掴むのだろう。
強敵に出くわした時にギラリと光る目、腹を刺された時に苦悶で歪む顔、そして勝利に打ち震える拳……。そうした一瞬一瞬にカッと燃え上がる人間性こそが、現実から程遠い「無敵のヒーロー」にリアリティをもたらし、視聴者の共感を集めるのだろう。