#54 『積ん読』と『トランザクティブ・メモリー』
2024年4月某日
自身の読書体験を振り返ってみると、20代のころは新書・ビジネス書の類をよく斜め読みしていたことを思い出す。その後、社会人大学院での研究生活では、難解な経済・経営の学術書と格闘するようになり、自身の読書の幅が広がったように思う。そして、最近は、むしろエッセイとかtwitter文学みたいな、情緒に寄り添って文章を丁寧に辿る読書を楽しんでいる。
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さて、様々な道を辿りながら読書体験の幅が広がりを見せたことで、「読みたい」と思える本が増えた。このことは、教養のみならず、人生の楽しみの幅を増やす意味で、とても良かったと感じている。一方、「積ん読」もまた増え、本棚の順番待の列は長くなるばかりである。頭が痛い。
「積ん読」の是非について語れるほど、筆者の読書生活は成熟していないのだが、最近、「積ん読もまた読書なのでは」と感じていたりする。そのきっかけとなったのは、「トランザクティブ・メモリー 」という組織学習の概念に触れたことである。
なにやら難解な定義とも受け取れるが、要するに、チームで何かを学習するときに「全員で同じ内容を勉強する」よりも、「それぞれで違う事がらを勉強して、教え合う」ほうが効率がよいということである。そして、その際に大切なのが、「誰が、何を、知っているか」という情報を把握することだという。つまり、様々な情報を一人で学びきるより、「ああ、それは○○さんに聞いたらわかるよ」というメタ情報を把握しておくとよいでしょう、みたいな話である。
この考え方は、組織を前提としたものだが、個人的な「本と知識」みたいなことにも準用できないだろうか。具体的には、本棚にならんでいる、全ての書籍を「全部、通読、読了」する必要はなく、「積ん読」を含めて「ああ、この情報は、あの本に書いてあったような気がするな」とか、思い浮かべられることの価値が大きいのではないか、ということである。
この考え方に立脚すると、「どこに、なにがあるか」という知識のスキーマを構成する一部として「積ん読」も価値を発揮していることとなる。ゆえに、「積ん読」に罪悪感など感じる必要はないのである。
迂回して普通のことを言いました。
ほなら。