命の源であるところの大宇宙の波動エネルギーにアクセスするためには。。。
仏教において、
諸行無常
諸法無我(一切皆空)
涅槃寂静
を法の旗印として掲げる主旨は、
結局のところ、
「この世のすべては、無常で、無我で、空であるから、とらわれるな。本質はそうしたこの世の物質や現象にはない。そうと悟得して、無執着の心境となったときに、穏やかな明鏡止水の心、究極の安定した真の幸福感のなかに没入することができよう。これを涅槃寂静の心境という。」
ということだと思います。
ところで、量子論(量子力学)が描く世界のあり方は驚愕ですが、事実であり、これが、上記した仏教にいう上記の諸行無常、諸法無我(一切皆空)及び色即是空、空即是色の世界認識とまったく同じとなるのです。
量子論において、すべては「波動としてのエネルギー」なのです。波動としてのエネルギーが、人間が何らかの形で観測したしたとたん粒としての素粒子になるという実験結果が、不可解であっても、突きつけられるわけで、否定しようがないのです。
こうした量子論と上記の仏教の世界認識とを重ね合わせると、以下のような世界観となるでしょう。
「すべては、本来、無常であり、実体ではなく、空であり、個別性のないすべてとつながった(量子もつれ状態にある)波動エネルギーであるが、人間が観測するという縁を契機として、仮の姿としての粒子となり、常であるかのように、実体があるかのように、個別の我があるかのように現象化する。」
こうした世界観から、仏教は以下の生き方を提唱します。
「個別の現象、物質のみでなく、この世の現象やありようすべて(他人からの承認や評価や地位や名誉なども含む)にとらわれるなかれ。それらは実体のない、仮に粒子となったものによって展開している仮想現実にしか過ぎない。ほんとうの現実は、『すべてとつながった波動エネルギー』だけである。そうしたすべてとつながった波動エネルギーこそが本当の実体、実在、実相である。そうした命の源にアクセスするには、個別具体的なマクロ的な現象に対して過剰に執着し、とらわれ、ふりまわされ、欲してばかりいてはいけない。そうしたすべてのこの世の現象は、諸行無常なるものであり、諸法無我(一切皆空)なるものであると悟得して、過剰に求めたり、欲したりしない平静な心でこそ、つまり涅槃寂静なる明鏡止水の心境であってこそ、『すべてとつながっている波動エネルギー』にアクセスできるだ。」
私たちは、個別具体的なこの世の現象にこだわればこだわるほど、『すべてとつながっている波動エネルギー』から遠ざかってしまうことになるのでしょう。。
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