神本町漱石通り「鏡子の家」A0~読書会勃発編
「先輩、この喫茶店ですよね?」
「そうですね、この店です」
町子は後輩からの質問に答える間、カフェの内装を気にしていた。
(……星3.7。業者の介入はなさそう。外装は新しめで、写真を見る限り店内も清潔。お手洗いは大事なのに、レビューサイトに書いてくれないことが多い。特に、便座はおしりと触れる部分。日本の飲食店は大概おいしいのだから、お手洗いのレビューをしてくれればいいのに。ついでにウォッシュレットの有無もね。友人は大丈夫だと言ってたけど、その点が気がかり)
二人は神本町漱石通り「鏡子の家」に入った。「Waterstones」という有名な本屋の裏手にあるカフェだ。
「いらっしゃいませ。お客様は何名様でしょうか?」
「二人です」後輩はピースサインをしながらそう言った。
「カウンター席のご案内となってしまいますが……」
「お構いなく。よろしくお願いします」と町子は答えた。
右側にあるカウンター席に案内された二人。
背後には丸型テーブルの席と角型の長テーブルの席があった。丸型のテーブルには3人家族が座っていた。父親が息子にパフェを食べさせる姿を、母親がスマホで撮影していた。角型の長テーブルは「予約済み」となっていた。
その奥にはソファー席が設けられており、ベスト姿のおじさんがボトルシップを造っていた。とても熱心だった。壁面には、赤富士のモザイクタイルが飾られていた。
背中からの視線はそれなりに感じやすいかもしれない。
町子はホットコーヒーとシフォンケーキを注文した。後輩はメロンソーダとパフェだ。
「僕、思ったんですけど、鏡子の家って夏目漱石の奥さんから来てるんですかね?」
「夏目鏡子のことでしょう? 漱石通りと命名された後にできた店だから、たしかにそうかもしれないけど……」
メロンソーダとホットコーヒーを手渡される。スタッフは赤いバンダナを頭に巻き、黒いエプロンをまとっていた。エプロンには、2階建てか3階建てに見える、丸まった洋館がデザインされていた。
「違うのでしょうか?」
「しかし店員さんのエプロンのデザインが、漱石ゆかりの何かではなさそうです。むしろあのデザインは三島由紀夫『鏡子の家』を彷彿とさせますね」
「ふうん、そうなんですか」後輩の顔には予想を外した不満が浮かんでいた。
「いいえ、確信までは至りませんよ。それにダブルミーニングになっているのかも。夏目鏡子と鏡子の家をかけているんです」
町子はそうフォローした。後輩の機嫌を損ねないことをマイルールとしていたからだ。
出されたコーヒーを飲みながら、町子は後輩が行ってきた京都旅行について話を振る。
「それで、どうだったんですか? 京都は」
「最高でした。鴨川沿いに等間隔に並んでいるカップル、清水寺で竹刀や込み入ったデザインのストラップを買っている修学旅行生、観光客の熱気に満ちている市内のバス、どれも本当だったんですね!」
「それは反応に困る感想ですね!」切り替えしづらい京都あるあるに、町子は戸惑いながら、微笑んだ。
話題は後輩が訪ねた寺社仏閣について及んだ。
「清水寺に寄ったんでしたね。他にも行ったお寺や神社はあるんですか?」
「金閣寺も初めて行きました。あの金ピカの感じ、子どもの頃に見た人工衛星と似ていましたよ」
「そうかもしれませんね。金色の断熱材をビッシリと張り付けた胴体。現在の金閣寺とたしかに似ているかもしれません。私は昔の金閣寺を見たことがないもので。その点は知りませんが」
「一度焼失したんでしたっけ?」
「ええ、『金閣寺』という小説にもなりました」
「ちゃんと読みましたよ、僕も」
「あら意外。拒否反応をする人も多いので驚きました。完読ですか?」
「もちろん。これでもインテリ側に属している人間ですからね。一応」
後輩は自慢げな顔をしながら答えた。
後輩はとっくにメロンソーダを飲み終えていた。町子は半分ほどコーヒーに手をつけた。店員からシフォンケーキとパフェが渡された。
町子たちの右隣には、ベージュとグレーのカジュアルスーツを着た老紳士が二人、すでに入ってきていた。
「まあでも、金閣寺は不思議な建物なのかもしれません」と町子は言った。
「将軍であった足利義満が、貴族をうらやんでか、一階二階には寝殿造りのような部屋を設け、その上には禅寺を建ててしまったのですから。武士なのか、貴族なのか、坊主なのか」
「コンセプトが不鮮明で、統一感がないんですよね」
「作品ではそのことを、不安定な時代精神に根差した不安定な建築、と評していた気がします。うろ覚えですが」
「それを戦時中と重ね合わせたわけですか」
「しかしながら、金閣寺そのものは生き残ってしまいました。応仁の乱も太平洋戦争も生き延びた。黄金にきらめく化物のように映るのも致し方ないことなのかもしれません」
話が一区切りしたと思われるところで、町子はお手洗いに行くことにした。「少々席を外しますね」
町子が去ると、後輩はスマホを取り出した。見たくない通知が入っていたので、彼はそっとスマホをしまった。手持ち無沙汰になった。彼はパフェを食べながら、右隣の老紳士たちの会話をこっそり聴くことにした。
「日本には粛清というものが無かったかわりに、殉死があったんじゃないか。最近はそう思っていましてね」
「と言いますと?」
「いやあね、漢や明ができたときには大粛清があって、武人を全部殺してしまったでしょう。反乱をさせんためにね」
「派手な人事異動でしたなあ。武勲を挙げた功臣も平時には敵になりかねませんからなあ」
「そうでしょう。だから、中華皇帝は粛清をするし、暴君とも呼ばれてしまう。ソ連も同じようなものだったんじゃないかと思いますわね、その点は」
「しかし日本では、いかん、となる。危ない人間はすぐ追い出されますから」
「で、殉死という慣習に頼ることにしたんでしょうな。『阿部一族』なんか、そうでしょう」
「森鷗外でしたね」
町子が戻ってきた。話し相手が戻ってきて安心したのか、空になったメロンソーダのグラスをストローでかき回しながら、雑談を再開しようとした。が、町子は腕時計で時刻を確認していた。
「そろそろ読書会の時間になりそうですね」
町子はそう言うと、今までの分の会計を済ませた。
「さあ、あなたも」と町子は後輩に声をかけ、「予約済み」となっていた席に彼を座らせる。
二人の右隣に座っていた老紳士二人も、町子に手を振りながらこちら側に移動してくる。「町子さんもこの店にいらっしゃったのですね」とベージュの老紳士。
店外からは、チェックシャツの大学生と演劇雑誌を2冊抱えた女性がやってきた。
店主は町子とベージュの老紳士に声をかけた。
「神本読書会の方ですね。お待ちしておりました」
「6名様でよろしいですね。3時間貸切となります。
また、課題図書の貸出はありません。
紛失・損壊は自己責任でお願いいたします。
お客様お一人ずつ、ドリンク2杯無料券を配布しております。
普通料金にはなりますが、通常メニューからの注文も可能です。
ご注文の際は、スタッフに遠慮なくお声がけください。
途中退場なさる場合は、スタッフに一声お願いします。
ご質問はございますか?」
「皆様、お揃いのようですので、15:06から3時間貸切となります」
「町子さんとは別の会でもご一緒しましたね。ですがいつもの会議室が空いてませんでしたので。急遽ここにしました」ベージュの老紳士はそう言った。
「新メンバーも誘ってくださったのに、ご迷惑をおかけしましたね」と老紳士は町子に軽く頭を下げた。
6人全員が席につくと、簡単な自己紹介が始まった。性別、年齢層、職業はバラバラ。好きな三島作品も多様であった。
大学生は『花山院』という短編を、演劇好きの女性は『近代能楽集』を挙げていた。彼女は特に「葵上」と「卒塔婆小町」を好んでいた。老紳士二人はそれぞれ『鏡子の家』と『豊饒の海』シリーズを推していた。町子は『美しい星』という長編や『翼』という短編が好みだと述べた。
「私は『金閣寺』か『潮騒』しか読んだことがありません。足を引っ張るかもしれませんが、よろしくお願いいたします」と後輩は言った。5人は後輩をにこやかに出迎えていた。
しかし本が取り出されると空気が一変する。付箋だらけの文庫本たち。
大学生からは気の利いたレジュメが配布される。老紳士は評伝や評論を何冊か取り出しながら、丸眼鏡をかける。演劇好きの女性からは、ビニールファイルに入ったパンフレットが机に差し出される。タイトルは『炎上』、市川崑監督の映画だ。
あと2時間35分。身体中が熱暴走しかねない読書会が始まる。
課題図書は『金閣寺』。
【続】