就活には使えない自己分析シート~キャラクター造形にお使いください①
※※ヘッダー画像は カオリ さんより
今回は自己分析をしていきたいと思う。といっても、就活に使えるような代物ではない。むしろ、こんなものを読ませたら面接官に落とされるだろう。
小説やマンガでのキャラクター造形に活かしていただけたら幸いである。
カタストロフ・フェティシズム
自分には空き地や更地に対するあこがれがある。戦争や地震によって生まれた空き地や更地に対して、なにかフェティシズムを感じてしまう。あまりにも広い更地や空き地に対して、空白感や虚脱感を覚えると同時に、開放感も抱いてしまうのだ。しかし、それは感動でも感慨でも感傷でもない。もっと圧倒されるような感覚、畏怖に近いものかもしれない。そこに自分では意識していない快楽が生じてしまう。(いけないこととは理解している。)
もちろん、更地には災害の痕跡があり、起きた事件がある。こんなことを感じてしまう自分が申し訳なくなってしまう。一方で更地に対する欲望は消えるわけではない。これはある種のリセット願望なのかもしれない。少子高齢化・一極集中で行き詰った日本をリセットしたいという願望が現れているのかもしれない。
隠されたリセット願望?
実際、そのようなリセット願望はある程度うまくいってしまったようにも見える。太平洋戦争でいちど更地になってしまったことで、日本は大きな経済成長を遂げられたのではないか。全国の都市で強制的な再開発が起きたのだ。更地をいちから再開発したことによって、大胆に都市がデザインできるようになり、時代に適応できた。だから高度経済成長と日本全体での繁栄が手に入れられた。戦後の一連の歴史によって、自分はなにか覚えてはいけないジンクスを覚えてしまった気がする。
「更地になってしまえばうまくいく」――このジンクスはあまりにも強烈でなかなか消えてはくれない。一面に更地が広がっているという視覚的な効果。空き地に立っていると、空き地の外の音だけが聴こえてくるという聴覚的な効果。そのような効果が感覚としてどうしても強烈なのだ。だから論理的には間違ったジンクスだとしても、否定することが難しい。感情的な面で否定しきれない。
終末論的な考え方が好きなだけ?
しかも、これが快楽と結びついている。カタストロフ・フェティシズムである。だが終末論的なあこがれとは異なる。"現代文明が崩壊した後、選ばれた人間だけが生き残る"という構図に興味はないし、現代の特権的な階級に対するルサンチマン(ねたみ)を抱えているわけでもない。(少しは抱えているのかもしれないが。)
しかし、実際の空き地を目にしたときに、終末論的な思考をはさむ暇はない。ただ広がっている荒野のような領域に圧倒されるばかりである。そこには幾何学的で人工的な区画だけが残っている。自然現象や戦争への畏怖を覚えると同時に、人類の意地汚い生命力の強さも感じる。自分の立っている場所から地平線の向こうまで、目に見えるすべての土地が測量され、徴税されてきた。すべてが文明の領域なのだ。それが「復興できる(リセットしてもどうにかなる)」という一種の楽観主義につながっているのかもしれない。
おわりに
これが自分が抱えているカタストロフ・フェティシズムに対する自分なりの考察である。もちろんまだまだ不十分だ。さらに深い考察がされる日が来るのかもしれない。いつか。
一方で、自分の人間味のなさも自覚している。そこで人が死んでいる。個人の歴史というものがある。自分はそれを無視している。
補足コメント
三島由紀夫と安部公房にハマる理由
自分が三島由紀夫や安部公房の作品に惹かれてしまうのも、このような感覚に基づいているのかもしれない。真夏の太陽と感動を通り越した空白感――三島由紀夫が描いた終戦の光景は象徴的だった。『砂の女』や『壁』といった作品において安部公房が描いてきた砂漠も、終戦の光景と重なる。
ただし、砂漠は自然のものであって、人工的なものではない。一方、更地は人工的な区画を透かしている。この点は注意しておきたい。
東日本大震災当日の天気
更地になった都市と真夏の太陽――終戦当時の印象はこのようなものだった。しかし東日本大震災は終戦の印象とまったく異なる。
地震は3月11日の午後2:46に発生した。全国的な被害の規模を把握できたのは、夜になってからだった。場所によっては翌日であったかもしれない。地域によっては雪が降っていたかもしれない。とにかく寒い日のことだった。
当日の印象を思い出すと、決して楽観的になれないし、「復興できる」とも軽々しく言えない。毛布にくるまりながら、ひたすら震えていた記憶を思い出す。警戒態勢。NHKはずっと津波と余震と原発のことを報道していた。
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