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終わりを迎える「人新世」とその次の時代「ノヴァセン」のアートについて。『美術手帖 新しいエコロジー』(エシカル100考、103/100)

気候危機への焦燥感が高まるなかで準備された展覧会を軸として、雑誌として編集が企画されたであろう『美術手帖』2020年6月号は、コロナによりそれらの展示が延期となり、美術館などが軒並み休館に至るなかで発刊されるという、不遇ではあるが運命的な一冊として黙示録的な色を帯びているのかもしれないと思う。

「新しいエコロジー 危機の時代を生きる、環境観のパラダイムシフト」という特集のタイトルをつけられては、アートに関わりのない人たちも手に取らざるを得ないはず(だよね)。

驚いたのは、同じく地球環境などを主題として書かれる科学や社会・経済の書物にくらべての圧倒的なまでの言葉の表現の豊かさと強さだった。

「気候変動や災害、感染症により世界中が大きな危機を迎えるいま、私たちは『自然』を搾取可能な資源とみなす態度の限界に直面しているのではないだろうか」

という特集扉の文章の、なんという過不足なく的確で均整がとれていることか。

SDGs云々とか、地球〇個分とか、海にプラスチックがとか、冗長に口を開くのが恥ずかしくなる美しさだと感嘆した。

「溶解する地球と 感染症時代の動物たち」(P78 、石倉敏明)というコラムタイトルにも度肝を抜かれた。

まあここら辺は個人の感性なので僕の嘆息はさておき、そのような言葉たちによってアート/アーチストが今の時代をどうとらえ、それを何をもって表現し、いかに伝えようとしているのかが、様々な切り口から綴られている。

「水」「地層」「植物」「動物」というまとめ方がされているのも面白いし、そこに「エコフェミニズム」についてや「エコロジーの美術史」などの論考も加わるので、読み飽きぬというより読み尽くせない内容になっていて、手に取ったみなさんはどこかに自身の課題感と深く共鳴する記事を見つけられると思う。

何度も現れてくるのは、「人新世(アントロポセン)」という言葉。

各論者が「人新世」の定義とその課題を強度ある言葉で書いているが、平易でありつつ印象的なものは下記だった。

「それは、人間活動が火山活動や小惑星の衝突に匹敵するほどの強大なものになり、地球のあり方を変えてしまった状況ー完新世以後ーを意味する言葉であるのだが、同時に、変えられた地球的状況が人間の存在条件を揺さぶり、思いもよらぬかたちでそれを崩壊させる状況も意味する言葉でもある。」「それを『エコロジカルなトラウマ』を呼び、人間世界と地球的世界の恐るべき一致を意味する」(p82、篠原雅武)

より辞書的表現をするのなら、「人間の活動が地球に地質学的なレヴェルの影響を与えている」(p100 、山本浩貴)時代のこと。

ユニークなのは、将来地層からビニールやプラスチックが沢山発見されるであろうと時代として「ビニプラ期」という表現もあり(p55、藤浩志)、クスリと笑った。

我田引水をすると、特集の最後に堂々たる存在感をもって置かれた論考「地球に降り立つことへの7つの反対理由 『クリティカルゾーン:地球に降り立つことの科学と政治学』序論」(p119~、ブリュノ・ラトゥール)にはエシカルと通じる要素が満載であった。

「人新世」の先には地球が「未知の土地」として我々の多く(人類のなかで富裕で啓蒙された一群の人々)の前に現れてくるという表現の後で、それが3種類の当惑をもたらすと説く。

「まずは場所ー自分はどこにいるのか。次に時ー自分はどんな時代にいるのか。そして自己認識ー自分は誰で、どんな役割があって、この斬新な状況にどう立ち向かい、どうやって自分の振る舞いに間違いがないと確信を持つか。」(p120)

エシカルとは「つながりを想い、これからを選ぶこと」だと、僕は思っている。

補足すれば、「(時間的、空間的な)つながりを想い(意識し)、これから(自分は何であり、何を大切にするのかを自律的に)選ぶ」となる。

世界中のさまざまな場所の人や自然とのつながりを意識して、そのどの地点にいるのか。過去から未来につながる悠久の時を意識して、そのどの一時にいるのか。という「つながり」。

そこで、私はどう生きるか、在るかを「選択」すること。

この「つながり」と「選択」を循環し続けること、上記論考でブリュノ・ラトゥールにより提示された3つの当惑を引き受けることが、エシカルであろう。

これは「これまで『環境危機』や『気候変動』といった迂遠な言い回しが指そうとしていたのは、実際はこの歴史的瞬間である。いまこそこれを、生死に関わる存亡の危機ととらえるべきときだろう。」と書かれる。

押し迫る気候危機へのアクションなどは重要だが、まずは内面的な3つの当惑(もしくは「つながり」と「選択」)を引き受けることが出発点であると伝えてくれているように思う。

ついでながら、論考のなかで「近代」の人々を「自分が住んでいない場所から生の糧を得ている人々」と定義しているのが面白い。「近代人というのはいつも不在地主のように振る舞ってきたのである。」

トゥルーコストを想起するが、言いえて妙であり、耳が痛い。

さて、様々なアート/アーチストの「人新世」への対峙は本書を楽しんでいただくのが良いとして、気になること。

「ノヴァセン」について。

ジェームズ・ラヴロックの新著『ノヴァセン:〈超知能〉が地球を更新する』で、100歳のガイア理論提唱者は既に「人新世」が終わろうとしていると喝破している。

サイボーグ、アンドロイド、AI・・・、呼び方はお好み次第だが、人間以外の、人間から生み出された知的生命体と地球をともにし、ガイアを形成していく時代=ノヴァセンが迫っているという。

そのとき、アートはいかに振る舞うのか。

「人新世」に狙いを定めている本書にはあまりその記載はみられないが、予兆は匂わされている。

「エコロジーへの意識が非人間(人間以外の生物、モノ、ロボットなど)を含む新しいヒューマニティや美学の探求へと向かわせ」「エコロジカルな領域に対する具体的で繊細な気遣いや共感的な態度を通して、芸術表現はより豊かで多様なものになる。」(p110、長谷川祐子)

『ノヴァセン』では、サイボーグ種は有機的な地球環境(ガイア)の維持のために人類と協働するであろうという予想が書かれていた。その方が当面はサイボーグ達にも都合がいいはずだそうで、したがってターミネーターは起こらないだろう、と。

そのときの「新しいエコロジー」を考えるアートとは、どのようなものだろう。どのような「非人間中心主義とアート」を見ることができるのだろう。

『美術手帖』に充満する豊かで強い言葉のイメージに溺れながら、そんなことも考えたくなる。

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