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AIと一緒にグローバル気候マーチを歩けるか?『ノヴァセン』ジェームズ・ラヴロック(NHK出版)(エシカル100考、97/100)

AIと一緒にグローバル気候マーチを歩けるか?

「ガイア理論」提唱者である科学者のジェームズ・ラブロック(御歳100歳!)の『ノヴァセン』を読んで、上記の問いが浮かんできた。

「ガイア理論」とは、地球全体(無機物も、あらゆる有機生命体も含む、コロナウィスルだって)を「自己調整システム」「ひとつの生きた生命体」ととらえる考え。

人間と自然というように分離対立してとらえるのではなく、それぞれが相互作用しながら生命体が生きられる惑星=ガイアを維持してきているとする。気候危機についての活動で、人間が滅びても地球や動植物たちは困らないよ、と言う人もいるが、人間が滅びれば地球全体の自己調整システムが崩れるので、ガイアも持続的な人類存続を求めている、ということになるのかな。

地球を「中年となった恒星(=太陽)を回る年老いた惑星」と評して、あらゆる存在がみんなで「恒常性を維持するのにすでに苦労し」ながら「地球を冷却に保」とうとしてきた、とある。

その上で、地球が至ったと言われる「アントロポセン(人新世)」=「人間の活動が地球規模の影響を及ぼし得る」時代を産業革命以降と定義する。

蒸気機関の考案者ニューコメンが嚆矢として紹介される。「彼の蒸気ポンプのおかげで、それまでアクセスできなかった化石燃料の活用が可能になった」産業革命以降は、すなわち大量生産・大量消費・大量廃棄の時代。

アントロポセンの始まりがいつかは所説あるけど、産業革命以降とするのはすっきりしているかもしれない。

いずれにせよ、アントロポセン=産業革命以降の社会=化石燃料大量活用ビジネスの社会=大量生産・大量消費・大量廃棄の時代が行き着いた現在は、諸氏ご存じの体たらく。(とはいえ、アントロポセンもいいこといっぱいあるよ、とラヴロックは念押ししている。「この時代が、世界とコスモスについてのわたしたちの知識を飛躍的に増加させたことへの喜び」。)

そしてそんなアントロポセンも終わりに近づき、サイボーグ(AI・アンドロイド・知的ロボット・非有機的生命)がガイアを構成する生命体として主役を担う「ノヴァセン」が始まっている、と論が進む。

「わたしたちが完全にノヴァセンに入ったことを知るのは、そこに現れた生命体(=サイボーグ)が自らを複製し、しかも複製上のエラーを意図的選択によって修復できるようになったときだ」。

シンギュラリティについての話しなどで、ここまでは提示されてきた既視感あるネタだと思う。ユニークなのは、ここから。

ではノヴァセンのサイボーグたちは、ガイアの構成員としてその維持に努めるのだろうか?

空気と水と有機的生命体(人類含む)に満ちた現在の気温の地球環境の一部として暮らすことにメリットを感じるだろうか?

それはすなわち、サイボーグがガイアの一部となれば共に自己調整システムを担う人類を滅ぼすこともないだろうし、逆に否となれば・・・・ということ。

冒頭のように、私たちは「AIと一緒にグローバル気候マーチを歩けるか?」という問いを立てることとも可能になると思う。

さまざまな思考実験が可能だろう。ラヴロックは「短期的には、地球を生きた惑星として維持するためのコラボレーションが起こるとわたしは期待している」と表明している。ターミネーターはとりあえず起こらないはず、と。

「現在の地球の年齢や状態から、サイボーグはわたしたちと共に動き協働する以外に選択肢はないだろう。未来の世界は、人間やほかの知的種の身勝手なニーズではなく、ガイアの存続を確かなものにするというニーズによって規定されるのだ」。

T-800とサラ・コナーがドンパチやらかせば年老いた惑星であるガイアがもたないので、お互い(ことのほかより理知的なサイボーグ側は)そんなことはしない、ということか。

これは短期的には、なので、やがては「地球上で40億年近くにわたって続いた有機的生物としての生命の時代の終わりを告げるだろう」とラヴロックは書いている。「人間は光合成生物と同じように、進化の次のステージのためにシーンを用意する生命体の役割を果たしているのだ」。

よくあるSFの道筋だけど、これはしょうがないこと。その上で、「生身の肉体をもつ人間と、ガイアに暮らす他の生化学的生命は、有機的生命から非有機的生命への移行の初期ステージにおいて、平和的に身を引くことができるのだろうか?」という問いがなされている。

「人類はアントロポセンの最後の年月をどうやって振る舞うのがいいだろうか?」

『ノヴァセン』という本において、100歳のラヴロックが我われに投げかけたい問いとは、これだと思う。

ノヴァセンを生きるサイボーグと協働して、人類を含む有機生命体が生きる空気と水に満ちた地球環境の維持・回復に努められるように、すなわちAIと一緒にグローバル気候マーチを歩けるように、私たちが何をするのかを考えようと呼びかけられているのかもしれない。

本書は終盤に、『アメリカの鱒釣り』のリチャード・ブローディガンの「愛にあふれ気品に満ちた機会がすべてを監視していた」という詩をノヴァセンの一つのイメージとして紹介している。

「それは未来についてのファンタジーであり、『サイバネティック牧場/そこでは動物とコンピューターが納得して/プログラミングされた調和のなかで/一緒に住んでいる』。人間はといえば、『労働から解放され/自然へと回帰し 動物の/兄弟や姉妹のもとへと/帰りつくのだ/そして愛にあふれ気品に満ちた機会が/すべてを監視していた』」。

「人間とサイボーグが、確実に生き残るための共通のプロジェクトをお互いが担うことで平和裏にーおそらく愛にあふれ気品に満ちてー一緒に暮らす時代だ。そのプロジェクトとは、地球を生存可能な惑星のまま維持することだ」。

・・これ、『1984』じゃない??

コロナの影響で、西欧ではある程度の監視社会を是とする論調が優勢になっていると聞く。ユヴァル・ハラリが「監視社会か市民の権利か」という論を出し、中国の社会システムが参照されたりもしている。

ここでいう監視社会とは、日本のようにしょぼく狭隘な「隣組」「村八分」システムではなく、ジョージ・オーウェル『1984』のビッグ・ブラザー的なすべてを透過し掌握する絶対的存在による監視システムのこと。

ラヴロックがなぜこの題名にわざわざ監視とまで入っているブローディガンの詩を引用したのか、その思惑がよくわからないのだけれど、ノヴァセンが来るとしてもこのような社会は嫌だなあ、、、と思う。

ちょうど『攻殻機動隊』の新作がリリースをされた。まだ物語の前半なので、どのような世界観と課題提示がなされるのか見え切らない消化不良状態だが、電脳やサイボーグが一般化した社会を描き、その中で固有の人間の魂は残存するかなどを問うてきた『攻殻機動隊』が今作で持ち出してきたのが「ポスト・ヒューマン」という存在だった。

「ポスト・ヒューマン」が何なのかはまだ明確ではない(というか明確にならないかもしれない)が、高度な情報処理や身体性を持つ、人間とは非連続的な存在(『攻殻機動隊』におけるサイボーグは人間の身体を置換した連続的存在)であるらしい。

『ノヴァセン』の説く、非有機的生命に近いのではないかと思う。

そんな「ポスト・ヒューマン」と、身体の各所もしくは全身を機械化(義体化)しつつも人間である魂(=ゴースト)を大切にする攻殻機動隊のレギュラーメンバーたちがどのような対立と調和を見せるのか、「人類はアントロポセンの最後の年月をどうやって振る舞うのがいいだろうか?」という問いに対するアイディアが拾えるのではないかと期待している。

また、竹内涼真が主役をつとめた『仮面ライダードライブ』では「ロイミュード」と名付けられたデータのような電子生命体をコアとする人工生命との抗争が描かれていた。

この「ロイミュード」も、『ノヴァセン』の説く非有機的生命に近かろう。作中でも「この星の新たな『生物』になろうとした奴ら」という表現がされている。

そんな「ロイミュード」に対峙するのが、こちらも義体化したような存在である仮面ライダーであることは『攻殻機動隊』と構造が近似している(あちら側と対峙するのは、あちら側に近いがこちら側にとどまっている辺境の存在である、というのはお定まりではある)。

『仮面ライダードライブ』は人の感情に焦点をあてており、それらの感情の獲得を通した対立を重ねつつも、相互敬意に至って物語を終えている。

「人類はアントロポセンの最後の年月をどうやって振る舞うのがいいだろうか?」という問いには、ブローディガンの詩から想起されるような『1984』的世界観ではなく、子供だましと笑われようが日本のアニメや特撮が見せる世界観のほうがヒントになる、という気がするが、いかがだろうか。

『ノヴァセン: 〈超知能〉が地球を更新する』ジェームズ・ラヴロック (著), 藤原 朝子 (監修), 松島 倫明 (翻訳)(NHK出版)




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