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個性化|ユング【君のための哲学#32】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



集合的無意識


カール・グスタフ・ユング
(1875年-1961年)はフロイトとともに精神分析学を発展させた第一人者である。フロイトの『夢判断』を読んで彼の熱烈な信奉者になったユング(フロイトもユングを後継者として考えていた)だったが、のちに二人は仲違いし、別の道を歩むことになる。
両者の主張の一番の違いは無意識に関する理解であろう。フロイトは人間の心を【意識】【前意識】【無意識】の三つに分けることで理解しようとした。(詳しくは#31を参照のこと)
しかし、ユングは【無意識】には二つの種類があると考えた。フロイトのいう【無意識】は【個人的無意識】である。これはその名のとおり、個人の中にある”意識できない場所”のことだ。ユングは【個人的無意識】のさらに深層に【集合的無意識(普遍的無意識)】があると考えた。【集合的無意識】とは、人類の心の中で脈々と受け継がれた"何か"である。遺伝的で生得的な、万人に存在する共有の無意識だとも言える。
例えば、私たちは丸いものに母性を見出す。どんな国であれ、どんな時代であれ、その傾向は不変であるように見える。(実際、ユングは神話を研究することで集合的無意識のアイディアに辿り着いた)
人間の【個人的無意識】を超えた深層には、ある共通した「捉え方」や「感じ方」や「機能」が存在する。その共通項のことをユングは元型(アーキタイプ)と呼んだ。
フロイトは精神疾患の原因を、人間のリビドー(性欲)に求めた。しかしユングはそれを(リビドーの存在を否定したわけではなく、それだけでは説明しきれないという意味で)否定する。精神疾患は【集合的無意識】を含めた無意識下の自分と、意識下の自分のバランスが崩れることであらわれる。だから、そのバランスを正常化させる方法を模索しなくてはならないのだ。


君のための「個性化」


私たちは様々な元型(アーキタイプ)を持っている。
その代表的なものが影(シャドウ)であろう。シャドウとは、自分が向き合うことを拒絶した自分自身の否定的な側面である。

例えば、知識欲が旺盛な女性がいるとする。(以下の例は、心理学者ケン・ウィルバーの『Integral Life Practice』にて提示された実例を参照している)
この女性は「知識豊富な女性は魅力的ではない」と考え、知識欲の強い自分を抑圧した過去を持つ。この抑圧はいつの間にか無意識の中にぐっと押し込まれ、あるときから「自分を抑圧している自分」がいたことすら忘れられる。ある日、その女性は知識豊富な大学教授と出会う。彼女は大学教授に封印した自分のシャドウを重ね、その教授を崇拝するようになる。しかし、それはあまりに度を超えた崇拝だったため、彼女は教授の前で声が出せなくなってしまった。

大なり小なり、人は自分が過去に封印したシャドウと戦っている。戦っているからこそ、シャドウが日常に与える影響も大きいのだが、私たちはシャドウの原因となった抑圧をすでに忘れてしまっている。ユングは、気づかれなくなったシャドウを意識化して自身に統合することが、自己実現のためにも人間的な成長のためにも極めて重要である考えた。これを【個性化】と呼ぶ。
人間の無意識にはシャドウ以外にもさまざまな元型が存在する。要は、私たちは思っている以上に自分のことを理解できていない。その未知の範囲を意識し、既知の自分と折衷していくこと。これがユング心理学における目標である。
ユング心理学の是非については色々な意見があるが、少なくとも「自分には見えていない部分がたくさんある」と認識することは、自分に対する変化という意味で非常に重要なのだと思う。自分は、自分が思っているよりも深く・未知の存在である。だからこそ、早急に自己の評価を定める必要はない。もしかしたら、そうやって自己の見えない部分と対話していく営みが、人間に特有の生き方なのかもしれない。


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