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民主主義について
かたいタイトルだと思うだろうか。
でも、今、ぼくはこの民主主義ってことを街を行商しながら(ぼくはシフォンケーキの行商人で、チキチキ5って名付けたリアカーを引きながら街を日々回遊している)、よく考えている。
よく言われるのは民主主義=多数決ってやつだ。
でも、ぼくは民主主義≠多数決だと思う。
あれやこれや書きたいことはあるけれど、以前読んだ本にこんな感じの下りがあった。
確か文化人類学者がある町だか村の調査に入りたいって村長?自治会長?だかにお願いしに行った時の話だ。
漠然としか覚えていないけど物語風に書いていくとこんな感じ。
ーーーーーうろ覚えの物語。。。ここから(誰かわかったら教えてください。ちゃんと引用元表示するので)ーーーーー
私が村長にこの村の調査をさせてくださいと伝えたら
「まぁ、なんだおれの一存じゃなぁ」
「寄合開くからそこに来てくれ」
そんな話になって、村の寄合所におじゃますることになった。
夜に寄合所に顔を出すと、そこにはすでに十数人のおじいやおばあが集まっていて、ふすまを開けたぼくのことをじっと凝視していた。
奥の席に村長がいて
「お~、来たか、ここだここだ」
と自分の席の隣にぼくを座らせて、お茶を一口飲んで切り出した。
「今度、この先生がなんやらって調査をしたいと言ってな。みんなに諮ろうと思って今日は集まってもらったんだ」
しかし、ぼくが、その後を引き継いで詳細を語りだそうとしたら別な村人が
「いや、そんなことより、あの件はどうなったかな」
と違う議題をしゃべりだした。
そこからだ。
あちこちでみなが勝手にわいわい言い始め、村長もその1つに口を出してはまた違う話に口を出す。
ぼくはその光景をあっけにとられてみていた。
数時間経ってなんの結論も出ないまま
「まぁ、今日はこんな時間だ、また今度にするべ」
と村長が宣言すると
みなはぶつぶついいながら引き上げていった。
蛍光灯がジジジとないている。
その灯の下で村長はぼくに
「まぁ、そんなことだから明日もまたこの時間に来てくれ」
「はぁ。。。」
なにがなんだかわからないぼくは、そのまま近くの民宿に引き上げビールを呑んで寝てしまった。
翌日、同じ時間に寄合に顔を出すと昨日と同じメンバーもいれば、違うメンバーも顔をそろえて待っていた。
じっとぼくの方を凝視するもの。
そして、中には少し微笑んでいるんじゃないかと思うような表情を浮かべるものもあった。
そんな中、また、まったくぼくと関係のない村の諸問題について、あちこちで声があがり、村長もそれに一つ一つ応えたり、時には別な誰かが諭したりという時間が流れ、判で押したように村長が
「まぁ、今日はこんな時間だ、また今度にするべ」
と伝えると、みんな三々五々帰路につき、ぼくはなんともいえない焦燥感を抱えたまま民宿に戻った。
その背中に
「また、明日同じ時間にな」
という村長の声がうすら寒く響いた。
なにやら肩が重い。
その重い肩と、ついでに足取りも重く今日も寄合所に向かう。
ふすまを開けると
「お、きたきた」
と声をあげるものがあった。
「ほら、そこに座れ」
と村長の横に座らされて、また昨日の続きが始まった。
いつまでこんなことを繰り返すのだろうか。。。その疑念が遂に喉元まで来た時に、村長が
「それで、まぁ、みんなどうだろうか?この先生が調査に入るのに反対の者はいるか?」
と急に声をあげたのだ。
そうするとしばらくお互いの顔を見合わせ、そして目配せなどの沈黙が続いた。ぼくの中で意味もなく緊張感が高まっていく。
しわぶきの音があちこちでして、座りなおしたのだろうか床板がぎしとなった。
「まぁ、いいんじゃないか」
誰かがそう切り出した。
「村長がいいって言うんならおれには文句なんかないよ」
と続くもの。
「あぁ、そうだな」
「よろしくな」
なんと全員一致である。
しかも、私はまだ調査の詳細を何も語っていないにもかかわらずだ。
声を発しないものもうなずいている。
そうして、私はこの村の調査を行うことになった。
ーーーーーここまでーーーーー
イロイロ議論もある。
思うところもある。
でも、今、ぼくの胸の中にすとんと落ちているのは、この風景が「民主主義」の姿ではないかという問いだ。
民主主義とは多数決ではない。
参加する全員が積極的なこともあるだろうし、消極的なことでもあるだろうけれど、納得感をもってそこにあること。
それが民主主義なんじゃなかろうか。
それは「イデオロギー」や「議論」だけで相手を打ち負かしたりするものでもなく。
身体的な共感的なものでもあるのではなかろうか?
同じ空間を共にしていること。
尊敬されているものが後を押すこと。
そんなことも含めて、民主主義とは身体的なものでもあるのではなかろうか?
そう考え、そんな目線で国会や議員たちの言葉をみていると、確実に思うことがある。
この国はまだ民主主義国家ではない。
まだ、その絵空事をまねしているだけのことなのだと。
与党は誰も説得しようと思っていないんだろうな。
ただ、時間を浪費し、
「もう十分審議した」
っていうポーズをしたいだけなだろう。
野党は論戦をしたいだけなんだろう。
伝えるべき相手に、伝わるような言葉、そして身体的な交流の時間をもつことはできているのだろうか。
いや、与党も野党もそれぞれの集団の外との交流を通した身体的な何かを得ているのだろうか。
ぼくらはそれを暖かく見守る心持をもっているだろうか。
ぼくは最近、青梅の木野下っていう地域によく出入りしている。
そこには武藤治作酒店っていう酒屋があって、裏にはsinbowっていうよしえさんがやっている居酒屋がある。
そこに夜な夜な集ってくる輩と呑んでいるのだ。
いや、本当はイロンナプロジェクトが動いていて、そのために集まっているんだ。
・上映会やろうや
・サバ缶作ろうや
・ポッドキャスト始めようや
etc
たまに常連さんから
「今日会議やろう」
って連絡をもらうこともある。
しかし、まぁ、行ってもただただ「無駄話」をしながら呑んでいるだけだ。
いつもぎりぎりになって
「まぁ、じゃあこんな感じでやるか」
って話になる。
新しいことは
「まぁ、いいんじゃね?あいつが言うならやろうか」
って話になる。
誰も反対はしない。
積極的と消極的と泥酔があるだけの風景。
これもまた完璧な民主主義なのだろうと最近ぼくは思う。
同時に最近まで
「なんて不真面目なんだ!」
って想いもなかったと言えばうそになる。
実は民主主義は時間がかかるものだ。
1つのことを決めるためにも。
その原因はここにあるのだろう。
誰かの議論に納得するということは。
この議論をこうやって妥協していくということには、一人一人の中でそれを消化しつくす時間が必要なのだ。
同時に、その消化を助けるものとは互いの身体的接触や場の共感という人間が持つ感覚器官をフル動員したコミュニケーションなのではないだろうか。
だから、民主主義とは時間がかかるのだ。
同時にぼくらは「間違い」を恐れる。
今ある知見をすべて動員しててでも「正解」をつかみ取りたくなる。
その根底には自分が「正義」だと感じている価値観があるのだろう。
でも、メタ的な視点で眺めた時にそれは本当に「正義」なのだろうか。
歴史を振り返って
「あの時代の人たちはなぜこんな決断をしたんだろうか」
と思ったり。
世界を俯瞰的に眺めた時に
「なぜ、あの民族はこんな不合理なことをしているんだろう」
と自分の中にある「視点」から眺めた時に感じるあの感覚。
別な時系列、空間にいる誰かからみた時に、ぼくらもまたその一人なんだろうとぼくは思う。
「正解」はないんだろう。
必要なのは「納得」なのではなかろうか。
急がなければいけないこともある。
いや、ぼくらがそう信じていることも。
でも、同時に「納得感」を得るために、自分の中の「正義」を犠牲にする。
そんな覚悟もまた、民主主義には必要なことなのではなかろうか。
同時にまた、誰かの納得感が湧き上がるまで、焦燥感や自分の「取り返すことのできない時間」の「浪費」に耐え続けることが必要なのかもしれない。
そう考えれば、民主主義というものは、それに耐えられる人。
それをしたいと思える仲間の中でしか生まれないものなのかもしれない。
ぼくらは自分の器を少しずつ、広げていくことでしか得ることができないものなのかもしれない。
ぼくらは歴史上「自由」をずいぶん手に入れた人たちであろうと思える。
国の「政治」に意見を持ち、表明し、投票によって「参加」することさえできる。
ぼくはこの「自由」がとても好きだし、それを保証する「民主主義」っていう考え方がだからとても好きだ。
だからこそ、みんな多様で、みんな等しく愚かで、全知全能ではないぼくらが決めていく社会の方向性なんて危なっかしいもので、妥協的なものであることは受け入れるべき事実なのだろうとも最近考える。
だからこそ、そこに「納得感」だけは失いたくないと思うのだ。
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