石原慎太郎と大江健三郎
注意
これは、石原慎太郎と大江健三郎氏に対する誹謗中傷ともとれる文章です。もちろん、わたしは誹謗中傷ではなく、下の記事で書いたように、根拠のある「推測」だと思っていますが、
この推測に同感する人は、今の日本には、たぶん、ひとりもいないだろうと思います。
そういう文章ですので、不快感を持つことを厭わない方は、続けてお読みください。
以下、本文。
石原慎太郎氏と大江健三郎氏は、一枚のコインの裏表。
どちらの方(かた)が表か知らないが、共通するのは、
①政治的極論によって狂信的な信者を集めて、自分の生の空虚を埋めようとしたこと
②そして、その自分の生きざまを自覚してないこと
つまり、教祖として生きたという点だ。①と②は、なにごとにせよ、教祖である人の条件だ。
教祖になる人には「信じたいこと」がある。
けれども、それを信じることができない。
(ウィリアム・ジェイムスの謂う所の「信じる意志」を持てない人が、自らの信仰ではなく、宗教団体と信心を求め、その中で、文才や弁舌の才のある有能な人は教祖になる)
信じたいことを信じられない、その苦しみが、将来の教祖を思索においやり、後に経典となる著作を生むのだ。
経典ができあがると、悟りを得た、真理を会得したと宣言して、伝道を始める。
自分が信じられないことを他人に信じさせる。
すなわち信者をつくる。
こういう活動に人生を使っていると、少しずつ、集まってきた人々が、教祖の抱える信じたいことを信じられないという自分の心の中核の空虚を包み込んで、それが見えない触れない、あるのを忘れてしまう深層へと沈めてくれる。
教祖を求める人も、同じように、心の中に空虚がある。
教祖の空虚ほど巨大であったり、底知れない深さを持っていたりはしていないにしても、同じ空虚である。
誰も、ほんとうに愛することができない人々である。自分しか好きになれない。これは、人間としてとてもさびしいものである。
この心の真ん中に空いた穴は、おそらく、自由と民主主義の国の市民、つまり生まれながらにして万人に天から与えられた人権という十字架を背負って生きる人なら、誰でも、持っているだろう。
心の中の穴の存在を暗示する症状としては次のようなものがある。
①自分が何者かわからない(いつか自分が何者かわかると思っている)
②自分だけの夢を持ち、それを実現するために生きなければ人としてダメだと思う
③弱者がイジメられ、弱者が搾取されているといった悪がいたるところで目につき、いつも正義の怒り(憤り)を感じている
④今の社会は変えなければならないと思っているが、具体的にどんな社会にするかについては、他人に任せている
これらが揃っていたら、その人の心の中には空虚があるかもしれない。
空虚をかかえる人、つまり、その人は、ニヒリストである。
大地のように確かな、天のように普遍の、そういう意味がどこにも見当たらない人である。
ニヒリスト、なんか、かっこいい響きである。
だが、どんな人かというと、石原慎太郎氏や大江健三郎氏といった人である。
かっこいいだろうか?
ご本人たちは、すごくかっこいいと思っていたようだし、信者はもちろん、かっこいいと思ったから、今でも二人の残した経典を読んで信心を深めているのだろう。