愉快な青年~「バカ通信」からはじめる西洋文化入門~
しばらく前に、ニーチェとショーペンハウアーを卒業してカントとシェリングで美学をやるべく大学院に進学した年下の先輩と通話していたところ、「なんか楽しくなってきた なんか楽しくなっちゃった」と、ボカロ曲「バカ通信」の歌詞を口ずさんでいた。そこでググって聴いてみたところ素晴らしい情感に心を打たれた。この20代の先輩はまだ中高生のような感性でネットをやっているのかなと思ったが、よく聴いてMVも観ているとかなりの懐古趣味である。そこで、そこから展開して文化を論じてみようと思ったしだいである。
文化におけるイデアのミメーシス
「バカ通信」のMVを観ていて興味深かったのは、「電波に絡まるアイデアがイデアの波に乗って侵略中」のシーンでイデアが「横」に伝達されている点である。実際にインターネット=ネットはその字の如く網の構造をしているので、そこでは垂直の機構にはなっていない。ネットには、例外的であるがゆえに一般的である機構に検索エンジンなどがあるが、深入りすればするほど膨大な水平機構から構成されている事態となる。この場合、その水平機構の外部から「アイデア」が「ネット」に絡めとられるさまをイメージしてもらえばよい。そして、それが「イデアの波」に変換され全体に波及するような様子である。実際にネットでみられる事態としては、本質的にネットの内部で完結している様子はまずみられない。MVの元ネタの想起をしてもらうとよいが、あくまでも「素材」は外部にある。そして、その素材を「不特定多数の切った張った」が盛り立てているさまが歌われている。この場合、「垂直性」はイデア論を典拠とする芸術論や神学と同じく、「超次元性」が担っていることになる。二次元に対して三次元は超次元的だからである。プラトンの考えでは、超越的な場に想定されるイデアの模倣(ミメーシス)である、三次元空間に実体化した、職人の制作した寝椅子と、さらにそれを模倣した、芸術家の描いた二次元的な寝椅子、或いは視聴覚のみで楽しめる作品の間には優位と劣位の関係が設定される。だから、プラトンの「洞窟の比喩」において、洞窟の二次元的な「偶像」から脱出した後にみられる「善」の象徴である太陽には、たんに視覚的にみられる青空に張り付いた影像性ではなく、むしろ身体と内部への温熱的包容を感じるべきである。
ところで、歌詞には「不特定多数の切った張った」というものがあるが、これはインターネット空間のコピペやMADで散々見てきた光景であろう。プラトニストではないわたしが先の歌詞についてこのことを踏まえて述べるならば、ネット空間を行き交う「イデアの波」とその素材群の切り貼りにも、当然太陽と同様に諸々の灯火のような作用はあるものだという実感がある。『国家』などにおいてどこまでも包容=全体性を追求したプラトンは、芸術の「義」を、その強大な影響力を認めていたがゆえにこそそれを否定しなければならなかった。最初に書いた先輩は、アドルフ・ヒトラーが登場するMADに言及して「今こそ民族主義が必要だ」などと言っていたが、多分それが自ら自身を否定していることに気づいていない。ネットでも散々見てきて飽きたようなことだと思うが、ドイツ観念論が個体の絶対的自我の自由や自己意識から出発しても最後にはナショナリズムやひいてはファシズムに行き着いたように、この時系列的で取り返しのつかない罠は近代空間にいつも遍在している。だから、カントが「神の首を切った」とハイネが指摘しているが、それを受けて登場したフィヒテが『全知識学の基礎』を書いた後に『ドイツ国民に告ぐ』を書いたような事態は、ヒトラーが「青年」に希望を見ていたことと同様の事態に思え、またそれは21世紀日本におけるインターネット空間で再現されたようなところがある。真理や善悪には「裁き」のような抑圧的な力があるが、少しものを考える習慣のある人ならやがて彼岸に到達する。しかし、美や笑いはそれに参画する者をあたかも内発的に嚮導するところがあり、なおどこかに着地する気配がない。これはまさにつまずきの石が信じる者にとっては救いの石になるようなもので、活用すれば非常に有効なものとなるが、よく考量しなければ最大の危険をも生みかねないものである。共有されるネタの中にそっと差別的なミームや特定政党への誘導が含まれていた事態を思い出してもらうとこのことがわかりやすい。恐らくその強烈な引力には、真偽の認識や善悪の倫理などでは太刀打ちができない。いちおうの自由が確保され、娯楽が余りあり、適切な対処をすれば寝食にも困らないこんにち、かつてのように食という餌で人を釣ることはしだいに難しくなっているが、なればこそ「人はパンのみにて生きるにあらず」というところの諸々の「命の糧」のアクチュアリティが増している。しかしその「命の糧」がどこからのものなのかを考量しなければ、命取りになることもままありうる。
模倣としての文化と経験
先にコピペやMADを例示して「切り貼り」について述べたが、なにもそうした引用の文化はそれらだけに妥当するものではない。ほとんどの作家は彼らの接続した文化の文脈を引いて創作活動を展開する。コピペやMADにそうした典型がみられるのは、たんに「元ネタ」「素材」との距離が非常に近接しているからである。一方で、ゲーテやドストエフスキーといった非常に浩瀚な作家は接続する「素材」のタイムスパンが非常に長く、ゲーテが端的に「三千年を解くすべを持たない者は、闇のなか、未熟なままに、その日その日を生きる」と述べているように、神話的なスケールの文化と素材に自己を置いている。例えば鴨長明が『方丈記』で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と書いているように、流れの中の泡沫として作品を残すようなところが文化にはある。文化の基本は継承なので、「歌われよ、わしゃ囃す」といった感度が重要になってくる。だから、なにもひとりネット文化が「元ネタ」と「コピペ」を重視するのではなく、文化とは遠隔対象的なコピペである。それゆえにこそ、同一の題材をとるコピペやMADで記事や動画の間に截然と質的差異が直感されるように、作者の引用の技巧が試される。長い文化的伝統であればあるほど、たんなる喜劇的な一致、すなわち人が笑う際に生じている、迫真空手部の風呂上がりのような「安心感をもたらす像」との一致ではなく、悲劇的な「真実らしさ(迫真性)」という一致性が強く出る傾向にあると思う。しかし私はアリストテレス流の悲劇趣味はさほど好まないし、彼のいう緊張からの劇的な弛緩による「カタルシス」には明瞭に「排泄」や「射精」のようなオーガズムがみてとれるので、それはそれとして快適なモードではあるが、一方の、母親の顔や声で安心して笑顔になるようなモードも欠かせないと思っている。西洋の文化的伝統にはどうしても「美」と「崇高」で「崇高」を優位に立たせるところがある。そこでカントのように「美」を婦人の柔和さなどに回収してしまうことが問題なのであるが、そのことは追って立ち入った議論をするつもりである。それに対して東洋的伝統である「陰陽」の相補性を立てることも有効な戦略だと思われる。
「元型」は、その語が発明される以前から伝統的に視覚イメージのものとして扱われてきたが、わたしは聴覚的元型も存在すると考えている。例えば、世界各地の言語で母親をあらわす単語は「mama、mama、mamá、ma、mama、mamã、maa、mama、haha、mami」など共通性がみられるのだが、恐らく「ナモーアミターバ」から展開した日本の浄土教系の念仏である「なんまんだぶ」には喃語の経験を喚起するものがある。母子関係の基本は自利利他円満の他力ではないだろうか。わたしも子供の頃によく祖母に「まんまんちゃんにちーんしてきなさい」と言われていた。仏壇にお米を供養してお祈りしてきなさいということである。これが信仰体験の基本であると考えられる。フロイトは「性欲動」と「自己保存欲動」で「エロス」を定式化したが、だからフィリア(友愛)にもアガペー(神的な愛)にもエロスは貫かれており、それが精神的でフィクショナルになっていくだけのことである。その霊性と身体性とを接合する媒介物として、儀礼的に、「共に割いたパンを食べる共食」であったり「仏に米を備える供養」が設定されているととれる。実際に、祈りとは「交わり」である。だから哲学書を読む際などに早まってはならず、「エロス」というのは性欲動のことだけではなく、モードとして「糧の世界」、すなわち「自己保存」も含まれているということである。そうした文脈でこそ、およそ信仰というものは「まんまんちゃんにちーん」をしているということが言える。そこには「愛」が貫いている。プラトンの『饗宴』などを読むとわかるが、一般には「プラトニックラブ」で通りがよく、彼らはエロースを主題に「おしゃべり」をしており、「喜劇作家」アリストファネスが男女一体の「アンドロギュノス」を語るという皮肉がある。しかし実際のところは集まって飲み食いして終盤男が男に言い寄るようなシーンまであるものである。この男性中心主義から派生する同性愛は、東洋の陰陽二元論とは相容れないものである。古典として残る神話的作品には基本的に「ノイズ」が少ない。わたしは近代以後の作品ではよく芥川龍之介の『歯車』などを典型的事例として挙げるが、作品と呼ばれるものにはあまりにも「元型」が流出しているものがある。ここまでいくと「真実らしさ」を超越して狂気と呼ばれるようになる。
議論のまとめにかかるが、これらの事態は、端的にいうと、人間が多種多様な経験をしているようで実際には文化的な、また遺伝的な、また乳幼児期に形成されたわずかな経験を反復して生きていることを示している。そうして、反復される経験の原型となる遺伝や文化や乳幼児期の経験の形の異同は、その人の人格そのものとなっているところがある。これを記憶から組み換えようというのが精神分析の技法であるが、当然精神病質者の神経の過活動はそれだけではおさまりがつかない。さらなる戦略を練らなければならないようだ。そして、言いたいことは、人生そのものが元型の模倣、すなわちミメーシスであることの指摘である。哲学書を読むこと、小説を読むことは、それらの作品の反復であるが、そもそも人生に元型の模倣による反復性、すなわち再生性がある。すなわち、ミメーシスとは芸術作品のみならず、人生だったのである。
移行対象という安全基地
わたしは小学生の頃、学校から「校区外へ出てはいけない」と言われていたのを律儀に固守していた。また、インターネットも中学に上がるまでは検索サイトをYahoo!きっずにしていたように思う。
愛着理論と対象関係論を複合させて考えると、人は「安全基地」なり「移行対象」なり「対象a」なりを心的に形成しているからこそ外部に出て冒険することができる。このことは大人と呼ばれる年齢になっても変わらないことだと思われる。戦後日本の多くの人には「会社」や「家庭」というプラットフォームのリアリティがあった。それらは「村社会」、すなわち村落共同体と同じく永続表象が成立したからこそ意味があった。しかし、そのリアリティが霧散しかかっている今、新しい現実性を形成しなければならない局面である。そこから、改めて家族愛が称揚される理由も明らかになるが、もはやこのような時代性の中にあって家族も会社も非常に不安定な機構となっており、永続表象が成立しづらい。そのため、より安定的な、すなわちより大きな現実性が求められるのではないか。
主に西方で信仰される唯一神には歴史的に構築された諸々の設定がある。しかし、現実に信仰するときはあくまでも「My God」=「わたしの神様」である。とうぜんそこには共同的な神であることも要請されるのであるが、あくまでもそれを信じる前提に「私秘的な神」のリアリティがある。わたしはキリスト教に回心した者であるが、その存在を信ぜずとも、神を信仰すると、すなわち内面に神経験を形成していくと、実際にあの感覚過敏な者特有の外出恐怖に苛まれづらくなる。ここで生起している現象はだいたい察しているが、それは、一般にも言われるように「まなざし」の経験である。ラカンは「対象a」の事例として「糞便」「乳房」「声」「まなざし」を挙げたが、これから了解できるとおり物心つく前の母子関係において形成された「まなざされる」という感覚は、そのまま「神のまなざし」に移行することとなる。いわば、親から見守られているという感覚を、内面的な神としてさせるのである。ラカンのこの議論においては、ウィニコットの「移行対象」の議論を受けて、なにも完全な自立へと移行し切らないということが肝なのであって、或いは移行する先があるとすれば何らかの信仰対象である。わたしは、先の先輩が、部屋着として漫画作品のTシャツを着用していることを本人から聞いたし、外出時にもバッグの中にその漫画作品の缶バッジを身に着けていることを知っている。だから、移行対象を移行対象として半ば実体化させたような様子のままでいることは可能なようである。思えばオタク系と呼ばれる類型の人々は、こうした諸々の移行対象をそのまま保持し続けている人が多いように思う。彼らは元来感覚過敏なのであろうが、その不安の穴埋めにグッズを利用している印象である。しかし、グッズのキャラクターではあまりにも歴史的に蓄積された構築性と共同性が不足しているところがある。
自己意識の自己反省でぐるぐると回して生きていってうまくいくほど自己意識は安定していない。だから古人は知恵として多くの「対象」を仮構した。それは実際の人間であるよりも、自然であったり、木であったり、偶像であったり、見えざる御名であったりした。そうしてそれに付随させる物語を儀礼化したり、さらには「神話」の形に仕上げ、それを反復することで人々の心に共通の対象を構成していった。そして、この構築物から自由になろうというのが近代の作法であった。だから、それはデカルトや、さらにはフィヒテ流の絶対的自我の自由を歴史に登場させた。しかし、それがもはやうまくいかない局面にきているとみている。この場合、たとえ心理主義的であってもよいから、エックハルトやユングの言うように「内面の神」をひとまず構築しておくとそこに信頼をおけるのである。いちおう言っておくとこの「内面の神」も祈る際は外的に見えざるものとしてでも投影しておくような感覚でいたほうがよい。「内面の神」を本当に「内面」だとして信仰しようとすると結局また自己意識の不安定性に立ち戻ることになりかねない。この議論で展開したことでなくても、安定化の一つには親しきところから「まなざされる」感覚が大切であるようである。
独創性としてのアフォリズムと青年期の終わり
これまでの議論で明らかなように、文化の基本は模倣であるが、それに抗って主体的に創造しようとした一群の近代的な人々がいる。「哲学ほど、哲学することの対象となるのが珍しいものはない。」から始まる初期ドイツロマン主義者たちの『アテネーウム』断章は、その典型である。また、パスカルの『パンセ』、ノヴァーリスの『断章』、ニーチェの『人間的な、あまりに人間的な』などの諸作品、芥川龍之介の『侏儒の言葉』、さらに枚挙に暇のない営みであるが、少なくともここに挙げた人たちは皆早くに死んでいる。
ここでカントの天才論の議論をみたい。カントの議論には一貫性があるため、体系として論じやすいが、カントはその天才論において、天才の条件は、まず独創的に産出することにある。すなわち、自然の秩序から知的に規則を借り受けることをしない。本当にそんなことが成り立つのかというのはまた別の問題だが、カントはさらに、天才の独創性は同時に範例的になるという。すなわち、普遍妥当的に範例として作用するということである。これが「範例的独創性」の議論である。これはおそらくカントが長年連れ添ってきた自然科学という営みからの現実性であると思われる。ニュートンなどは、確かに天才的で独創的とされるとともに、その定式化した法則は範例的に作用している。これを道徳にも芸術にも適用しようというものであるようにみえる。ここからは暗に「天才とはだれか」という示唆的な問いがなされているように感じられると思うし、実際に現代でもカントを学習する人たちは往々にしてそのように議論を受け取る傾向がある。カントの議論には先行して「自律」の議論があるので、それとパラレルにもなる。すなわち、カントによれば、人は未だ「未成年状態」である。当時の事例であれば牧師、そしてその他諸々の教師、すなわち「大人」に指導されなければ行為できないからである。そこでカントは「自分で考える」勇気を持つことで大人になれることを説く。そうして自らの意志で道徳法則に従うことを説きつつも同時に、自らの善意志の自己立法に従って主体的かつ道徳的に行為することを説く。「汝の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ。」これが「自律」である。ここから、自己=天才=神という現実性が生起する。これはたんにカントが定式化しただけで、ルネサンス以降の近代のものの考え方の基本形となっているところがある。この考え方が「アフォリズムという範例的独創性」を生み出したということが指摘できる。自らが見出したことや自らが定式化したことに自ら従うのである。だからこそ、もう青年ではいられず、共同性に回収された意味での「大人」として生きる局面が来ると、その中年の危機を乗り越えられない場合が少なくない。「すべての子供に無限の可能性がある」という教育方針はいかにも美辞麗句であるが、しかしその見え透いた綺麗ごとでも案外深刻な影響を及ぼすのではないかという怪しみを持っている。その教育を摂取してしまった人の解毒ということ、また、社会がそのようなあり方になってしまっていることは、改めて検討に付さなければならないことであるが、様々な議論の分岐があるので、考察を継続しなければならない。
「神は死んだ」というのはフリードリヒ・ニーチェが宣言したことであるが、ニーチェはあくまでも宣言しただけで、実際に殺したのはカントだ、というのは先の先輩が言っていたことである。ニーチェは「市場」にいる人々に向かって、あなたがたの手で神は殺された、と言っている。恐らくこの「市場」にいる人々ということで指示されているのはブルジョワ市民であると思う。しかし、カントやニーチェが指し示すところの「神」は復活する神である。今日も誰かの心の内で彼は劇的な復活を遂げているのである。
2024年5月21日