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カント『純粋理性批判』を読む Ⅰ:超越論的原理論 第一部超越論的感性論の説明

 わたしは今回から、カントの『純粋理性批判』を読んでいきたい。わたしにはそれ相応の懊悩と動機がある。というのは、わたしはこうした思考の「型」というものを全く身に着けていないので、端的に言って不安なのである。カントは定評があるし、一定の思考の型になりえようから、崇敬をもって読めるというものである。わたしはなかなか臆病な者であるから、型もなしに自己組織化だけでやっていくような蛮勇はできない。すなわち、このように、わたしは哲学にたいへんな畏怖作用を感じているのである。哲学の作用は文学的には悲劇に属する。だから、わたしはアリストテレスやトマス・アクィナスではなく、やはり既にある程度の親しみのあるカントを選択するしだいである。わたしの疑惑……オートポイエーシスの河本英夫は、授業でアリストテレスやカントを虚仮にして馬鹿にすることで、学生を実験台に使おうとしているのではないか?河本自身はアリストテレスやカントをよく学んだうえで哲学を実行しているのではないか?そうした尽きぬ疑念から、わたしは、「みんな」学んでいるカントによって安心感を得られたら本望である。河本の研究室で一緒になった先輩も、結局院でカントを学んでいるところである。Xで繋がっている界隈民の大学生の方も、カントを学び始めたようである。なればこそ、わたしも思いっきりカントを学ぶ動機があるものだ。いわばこれは「大いなる日和り」である。以前あれだけ、友人と「哲学は、今も、カント!」などと言ってカントを乗り越えることを所望していたものだが、わたしの戦略としては、むしろ彼が別の形而上学を用いて変革を志向するならば、いざよし、わたしはカントを端的に読むのではなく、既にわたしがずいぶんと学んで、河本からもずいぶんとカント批判を聞かされて、さらに友人の影響を受けてきて形成されてきた、一種の名無きわたしの哲学を以てして、カントを批判的に読むのである。むろん批判的に読むとき、三批判書のような体系的な書物であれば、同時にその内容を摂取するということが実行されるはずだが、それはそれとして、その後のわたしの著述がいかに変容するか、或いはさして変わらないかを知る者は、人間界には存在しない。また、それが実行されることで、その後のフッサールの厳密学を志向した現象学への足掛かりを作れるというものである。




カントによる超越論的感性論の説明


 カントは、『純粋理性批判』の本編を、超越論的原理論のうちの超越論的感性論から開始する。なお、周知のことでもあると思うが、カントにおける「超越論的」とは、transzendentalであり、長く使われていた訳では「先験的」であった。しかし、「トランス」とあるように、原語に忠実に訳すと確かに「超越論的」となるというしだいである。「先験的/経験的」とは、それ以前の哲学であるイギリス経験論と大陸合理論からの系譜上に出現する概念である。
 以前大学の哲学史の講義で、「超越論的」というのは、頭から矢印が出たものが反省的にまた頭を指すような事態であるとの説明があった。わたしはそれでおさえている。すなわち、経験的なものは「対象」(『純粋理性批判』において「対象」は多義的であり、一つには普通にいわれるかたちでの物としての対象を指す方便で使われるが、カント的にはあくまでも物自体からの触発を受けて成立した現象としての対象のことを指す)に関わらざるを得ないのだが、先験的=超越論的な概念や形式や力といったものは、カント自身も述べているようにいわば自分自身から遠く離れることなしに、ただ頭から矢印を一旦出してそれが自己自身に向かえば、そこにただちに「発見」されるものなのである。すなわち、この後に出てくる空間の形式や時間の形式、またのちに出てくるもので有名な「純粋悟性概念」やひいては「超越論的仮象」までも、あくまでもカントの言い分では、それはカント自身のフィクショナルな発明ではなしに「発見」である。のちにニーチェがドイツ古典哲学を振り返り、発見と発明の分別もなしに「発見」に興奮していた当時のドイツ哲学界を揶揄している。シェリングなどは「知的直観」を「発見」したと称して宗教人の歓心を買った、ときたものである。これは参考になる記述であり、実際に当時のドイツ古典哲学期のドイツ知識界を学ぶにあたっては、注意されたいことである。


 どのようなしかたで、またいかなる手段をつうじて、認識が対象に関係するにしても、認識がそれをとおして対象に直接に関係し、さらにはすべての思考が手段としてもとめるものは直観である。直観が生じるのはたほうただ、私たちに対象が与えられるかぎりにおいてである。私たちに対象が与えられるのは、しかしそれ自身またすくなくとも私たち人間にとって、対象がこころをなんらかのしかたで触発することによってのみ可能である。

カント『純粋理性批判』,熊野純彦訳


 カントの「超越論的感性論」の議論はここから始まる。すなわちこの箇所は、「外的対象」を問題にしていると読める。その対象と関係するしかたは、「」をなんらかのしかたで「触発」することによる「直観」である。カント哲学において、直観は外的対象からの触発によって生じる受動的な事態となる。そして、その「対象」は、触発の結果「内的対象」として与えられることになるのである。ここに、「心」の外と内のあいだで変換が行われることがわかる。カントが問題にするのはこの変換過程=認識過程のありようである。
 さて、ここで気づかれると思うが、カントは「心」を既に所与のものとして、いわば「函」のように前提している。心は既にカントの大前提として、在るものであり、これがヒュームとの違いである。


私たちが対象によって触発されるしかたをつうじて、表象を受けとる能力(受容性)を感性という。感性を介して、したがって私たちに対象が与えられて、感性だけが私たちに直観を提供する。悟性によっていっぽう対象が思考され、悟性からは概念が生じるのだ。いっさいの思考は、しかしながら直線的に(直截的に)であれ、廻り道を介して(間接的に)、つまりなんらかの徴表を介してであれ、最終的には直観に、したがって私たちの場合なら感性に関係しなければならない。私たちには、ほかのしかたではいかなる対象も与えられえないからである。

カント『純粋理性批判』,熊野純彦訳


 「感性」=表象を受けとる能力(受容性)である。感性からは直観が生じる。
 「悟性」=対象を思考する能力である。悟性からは概念が生じる。
 カントの言い分だと、あらゆる思考は理性的存在者=人間の場合、必ず直観に、つまり感性に関係しなければならない。なぜなら、ほかのしかたではどのような対象も与えられないからである。


 私たちが或る対象によって触発されるかぎりで、その対象が表象能力に対しておよぼす結果が、感覚である。感覚をつうじて対象へと関係する直観は、経験的なものと呼ばれる。経験的な直観の未規定的な対象が、現象と称されるのである。
 現象において感覚に対応するものを、私は現象の質料と呼ぶ。いっぽう現象における多様なものがなんらかの関係において秩序づけられうるようにするものを、私は現象の形式と呼ぶことにしたい。感覚がそのうちでのみ秩序づけられ、なんらかの形式へともたらされることが可能なものは、それ自身ふたたび感覚ではありえない。だからたしかに、いっさいの現象の質料はア・ポステリオリにのみ私たちに与えられるけれども、現象の形式はたほう感覚にとっては総じて、こころのなかにア・プリオリにあらかじめ存していなければならない。それゆえ形式は、すべての感覚から切りはなして考察されることが可能でなければならないのである。

カント『純粋理性批判』,熊野純彦訳


 「感覚」=心が対象に触発されるさい、その対象が表象能力に対して及ぼす結果のことである。そして、感覚をつうじて対象へと関係する直観が、「経験的なもの」と呼ばれる。そのうちの、すなわち経験的な直観の、とくに未規定的な対象のみが「現象」と称されるのである。

 すなわち、規定はこのあとに感性の形式や悟性のカテゴリーなどによって行われていくので、ここでは、あくまでもそうして成型される以前の「未規定的な」内的対象のことを「現象」と呼ぶ、と押さえておくとよいと思う。

 そしてカントはここで「質料/形式」という二分法を提示する。対象による触発の結果が現象の質料であり、多様な複数の現象の質料を秩序づける原理が形式である。感覚を秩序づける原理は感覚ではありえないから、それはア・ポステリオリにではなくア・プリオリに心に存在していなければならない。だから形式は、非経験的に考察されることが可能でなければならない、という論旨である。

 ここで言っておくと、カントのこの箇所の議論を読めば、「現象/物自体」という二分法にはなっていないことがわかる。むしろカントに正しく沿えば、「心/物自体」である。


 感覚にぞくするなにものもそのうちに見いだされないような表象をすべて、(超越論的な意味で)純粋と呼ぶ。したがって、感性的直観一般の純粋形式がこころのうちにア・プリオリに見いだされるであろうが、その形式のうちで、現象における多様なものがすべてなんらかの関係において直観されるのである。感性のこの純粋形式はそれ自身また純粋直観と呼ばれよう。そこで、物体の表象から、悟性がそれについて思考するもの、つまり実体、力、分割可能性などを切りはなし、同様に、表象について感覚にぞくするもの、すなわち不可入性、硬さ、色等々を分離するとしよう。それでもこの経験的直観のなかで私になおのこされているものがあるのであって、それはつまり延長と形態にほかならない。両者は純粋直観にぞくしており、この純粋直観はア・プリオリに、すなわち感官あるいは感覚の現実的な対象を欠いても感性のたんなる形式としてこころのうちに生じる。
 

カント『純粋理性批判』,熊野純彦訳


 カントはここで、対象が触発によって表象能力に影響を及ぼす「感覚」に属するものがなにも見出されないような表象をすべて、超越論的な意味で「純粋」と呼ぶことにする。そこでカントは「純粋形式」の存在を主張するのであるが、つまりカント的には、形式は表象可能であるという前提がある。形式が表象可能?よくわからない、と思われた方もいるであろうが、多分、読んでいくと何を言わんとしているのかわかるようになると思う。

 感性の「純粋形式」は「純粋直観」と呼ばれる。
 ここで注目したいのが、「物体の表象から、悟性がそれについて思考するもの、つまり実体、力、分割可能性などを切りはなし、同様に、表象について感覚にぞくするもの、すなわち不可入性、硬さ、色等々を分離するとしよう」という箇所である。カントにとって、「実体」や「力」や「分割可能性」は表象に属するのである。すなわち、よくある、表象はイメージである、という先入見は、カント哲学的には間違っているのである。

 しかし、「延長」(ものの拡がりのこと。ものがその次元の空間において「占めている」こと)と「形態」(もののかたち)は「純粋直観」として残る。これは、「感性の形式」として、かりに経験的な対象を欠いても心に残るのである。


 さて、これに関する学は、感性のア・プリオリな形式に関する学として、「超越論的感性論」と命名される。これはカント哲学において、「超越論的原理論」の一部を形成する。これに対する学は、純粋思考の原理に関する学である「超越論的論理学」である。


 超越論的感性論にあっては、それゆえ私たちは第一に、悟性がじぶんの概念によってそこで思考するいっさいを切りはなすことで感性を孤立化させるだろう。そのことで残存するのは経験的直観以外のなにものでもない。第二に、この経験的直観から、さらに感覚にぞくするすべてのものを分離することになる。そうすることでなおのこるのは純粋直観と現象のたんなる形式だけであるけれども、それこそ感性がア・プリオリに提供することのできる唯一のものなのである。こうした探究にさいして、感性的直観のふたつの純粋形式がア・プリオリな認識の原理として存在しているしだいが見いだされることだろう。すなわち、空間と時間とである。その両者の考究にいまやたずさわることにする。

カント『純粋理性批判』,熊野純彦訳


 カントが超越論的感性論をとる戦略としては、悟性を切り離すことで感性を孤立化させて考察することである。そのことで残るものは経験的直観でしかない。さらにこの経験的直観から感覚に属する一切を切り離す。そうして残るのは純粋直観と現象の形式のみである。これが、カントによれば感性がア・プリオリに提供することのできる唯一のものである。そこで、感性的直観の二つのア・プリオリな認識の原理が立ち現れる。それが空間と時間である。カントはここから、ア・プリオリな認識の原理としての、感性における空間と時間についての考察を開始するのである。


 今回はここまでにして、カントの空間論と時間論は、次回以降にしたい。
 またお読みになっていただければ幸いであるし、励ましにスキを入れてもらうと喜ばしい限りである。

2025年1月5日


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