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《自己と他者の眼差しが創る世界》 「地球とは」「量子力学の波と粒 自己の視点と他者の視点」「時間について」


「量子力学の波と粒 自己の視点と他者の視点」



意識の波
量子、素粒子の波
それを固形化、粒子化させているのは
観測者の視線だと言える。
自分の見える範囲を粒子化させ
物質として顕わしてるのは
存在論的自己の視点である。

視野にある自分の肉体の一部と
物や人。 

さて、自分の肉体を粒子化、物質化
させているものは誰か?
それは自己の視点ではない。
自己の視点からはからだの半分が
見えるだけだからだ。
顔や背中側、それを固形化させているものは
存在論的他者という事になるだろう。

人が視野空間に複数いる場合はどうか。

そこにいる人は本人以外の
複数の他者によって固形化させられている。
固形化してもらっていると言ってもいい。
つまり自分は、なんと複数の他者によって固形化されている。

もの自体、原子、素粒子の中にある
存在論的空間。
そこからの射影、波を
自らと他者の視線によって
世界を物質化させている。
肉体、自我、物質はそのようにして
毎瞬光の速さで形造られている。
自分の肉体は他者の視線の中に
あるというのはそういう意味だ。
鏡に映して自分の顔をみられるじゃないかと思うかもしれないが、それは自己の視点が鏡という反射板を物質化させているだけなのである。

自己と他者の相互粒子化。





ここに世界は私一人ではないとはっきりと言える理由がある。



「時間について」




時間というのを作り出しているのには、
(ここでいう時間は過去現在未来へと流れる
一般的時間のこと)
心や言葉や自我が関わっている。

江戸時代は未来から時間が流れてきている感覚であったし、アビダルマ仏教でもそういう事を言う。

過去現在未来へと流れる時間は概念的時間。
他者視線が作ったものの中に入り込んで
そういう概念の中で生きている状態だ。

未来から時間が流れてきている感覚は
感覚と書いてある通り自分自身の感覚だが
まだ、時間と自己が分離している。

時間自体になるということは
悟りとか空とかの状態で
そこでは時間も空間も自分自身も
一体化しているから
時間は流れない。

まさに常世の国だ。

常世の国から時間と空間は
二つに別れて
今の世界を作っている。

今ここを生きるとか世間で
言われることもあるけれど、
ぼくらが見ている世界は
瞬間、瞬間として
常世の国から顕れてくる。




今ここが全てではなく
常世から出てまた常世に還っていく。
瞬間は記憶として常世に戻る。
その瞬間を繋げている《持続》というものがある。

それはぼくらの精神の働きだ。

常世で生成される時間(未来)
ぼくらの目の前に顕れた瞬間(現在)
そして記憶として常世に還る時間(過去)

それがぼくらの本当の時間なのだ。




「地球とは」





・・・自己と他者の相互粒子化。
そう考えていくと、地球というものも
そのようにしてして創られていると
見ていいだろう。

精神、母体としての地球。

地球という素粒子
(陽子と中性子)。

その中に大きな存在としての 
自己と他者がいるのだろうか。

そこから分化した我々という
自己と他者。

その射影としての人類。

人類がその両目を使い
母体としての波を
粒子化していく。
いや、人類のその両目を使い
と言った方がいいかもしれない。


各々の地域、民族、社会、国土、国家が出来る。

その目で見たものは、身体で経験したものは
記憶として母体に還っていく。

それが回転を生み出す。

自転と公転。

自己の回転と他者の回転。

太陽系もきっとぼくらのその精神の運動体としての射影なのかもしれない。宇宙の星々もぼくらの精神なのかもしれない。




ご一読ありがとうございました。
ヌーソロジーやシュタイナーなどを地図にして
歩いてきた長旅もここまで辿り着く事が出来ました(ヌーソロジーを始める以前遥か昔の20代から魂を巡る旅をしてますが・・・🐑)
他者の眼差しが自分の肉体を創っていると感じた時、いいようのない感動に包まれました。その勢いで「量子力学の波と粒 自己の視点と他者の視点」と「地球とは」を書くことが出来ました。

ヌーソロジー的量子力学では
自己という球面がSU(2)
自己と他者がSU(2)×SU(2)
数式的にはパウリ行列というもので表されます。
載せようかも思いましたが目が回るのでやめときます😅💦
いずれ別の形で書くかもしれません・・・

以上です!

ナマステ✨🐉🐍

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