アートの乖離症状
死への不安、それは確かにあると思う。健康な状態ならまったく感じないけれど、体に不具合が生じたとき、女性なら乳がんや婦人系の病気を。
なんとなく体の奥底が痛い。放って置いているから半年は経つだろうか。決まって胸の下あたり、肋骨の内部が痛い。しかし気のせいで済むレベルだから、日常生活に支障はない。病院に行くにもどこを受診したらいいかわからない。看護師の母親にはもう頼りたくない。
さて、何年も作家としての解離症状に悩まされていて、もう辟易どころかうまく付き合っていかなくてはならないと感じている。いわゆる「作風」と呼ばれるようなもので、それが決まってない。
それもそのはず、学部の油絵を卒業してから転々としてきたからだ。
アクリル,スプレーで即興描き(油絵を放棄)・パフォーマンス・インスタレーション→子育て→アートスクール設立→油絵再開(抽象表現,こどもや保育園と連携)→宇宙と交信(抽象絵画)→現代美術活動再開・mataphysical art(テキスト,ドローイング,行為,彫刻など形式不問)
36になったのに、まったく決まっていなくてホームページがいつになっても更新できない。
いろんな言い訳や理論を追求してきた。ああだから、こうだから作家は常に乖離しているものなのだ。とか、美術とはひとつの角度から捉えられるものではない、作家も一方向から決めつけるのはよくない。と。
しかしひとつも芽が出ないまま、出かけた芽も自分で潰して、手当り次第次の方向へ走ってしまう。自分は病気なのではないか?と書きかけの大量のメモを前にして、ホームページを更新するために開いたPCを前に、いつも絶望する。
おかしい、昨日決まったはずの方向性で次の日に更新するって決めたじゃないか。
手が動かない。
状況を見かねて、ここ数年、友人たちがわたしにいろいろアドバイスをするのだが、自分が無いためにどれも名案に思えて、右往左往してしまう。
わたしは一体なんなのか?
わたしとは一体どういう人物なのか、なんにもわからない。どうしてみんなああやってホームページがつくれるのだろう。いわゆるブランディングが、何にもできていない自分に毎日絶望する。
複数の次元を扱うということは本当に大変で、絵画で言うなら図像にたいして絵具の現象。形式でいうならオブジェにたいして映像表現。うーーん、絵画に対してインスタレーション?うーーーーん、オブジェにたいしてのパフォーマンス?非物質的な概念?運動?難しいね、うん。難しい。
難しいことばかり考えているのかもしれない。わたしはアートスクールをやっているけれど、生徒のみんなからは、先生難しい、そんなことは解らない、もっと自由でいいのでは。と諭される。それは他の作家からもそうで、若い頃もっと開放的に制作していたときの作風を勧められることが多い。しかし若い頃は若い頃。おばさんがそんなことやっても、と思う。なんか無理していないか?え?無理なの?
いま興味のあることは、神秘学、科学で、思想で、哲学だ。インスピレーションと、わたしの社会においての立ち位置と、美術的な思考をどう伴っていくか、だ。口うるさいおばさんが、またなんか言ってるよ。はあ、、、すいませんね、、いつも、、、、って。(;´Д`)
まったく自分に自信が持てなくて、それはやはり作風が乖離しているからだと思う。ミニマルなものに心の奥底から感嘆し、宇宙の躍動感を覚える。または岡本太郎のような爆発された精神を放る。一方でアートスクールにて美術や美術史への見解を述べる。哲学の挿絵を描く。この中からひとつ選べと言われても、無理。それは全部わたしだから。並行してやっていくことの難しさも感じる。だけどその難しさって、思えば、何だろう?誰かからの目線を気にしてる?自分らしくいることが、逆に足枷になってる?もうひとりの自分が、それじゃ分かりづらいでしょ!って言ってる。
この見苦しい葛藤、なんとか打破するために、ホワイトキューブの発想しか採用ができないと薄々感じる。ホームページはアチコチいろんな方向でやってしまう私のようなひとには視覚的な背景を削ぎ落として、ホワイトキューブの概念でやるべし。と。やるべし。って、誰が言った?
じゃあそれでやればいいじゃん。早く着手しなよ。待て待て。ホームページには、メニューという概念があるんじゃ。このメニューというのが厄介で・・・。メニューで何じゃ。分ければ良いんじゃないか。はいはい、分けますよ。worksでしょ、cvでしょ、statementでしょ、installation viewでしょ、textでしょ、art schoolでしょ、activitiesでしょ、eventでしょ、drawingでしょ、paintingでしょ、videosでしょ、performanceでしょ、installationでしょ、designでしょ、projectでしょ、ってメニュー多すぎる。多すぎるからメニューの案では無理だよ。じゃあメニューじゃなくてボタンにしよう。ちょっと待って、いまどきメニューもないページで良いの?よくわからん。じゃあ誰かに頼もうか、いや、頼んだら申し訳なくておかしいときにおかしいってわたしは言えないよ。だいたいworksの種類分けに悩んでいるんじゃないか。種類って何だ。
わかった!一個一個が中途半端なんだ!
違う!種類の次元がめちゃくちゃなんだ!
作家って、どう生きれば良いんだろう?
まわりからの期待。様々な試行。記録。打ち出し方。美術作家であることには間違いは無いのだけれど、時にそのなかでの分野が曖昧。
スラッシャーには共感する。人間って、多様な動物だから。
人には色んな局面があって、それぞれの共同体で様々な力を発揮する。
ひとつ。
貧しい人間にはなりたくない。
結果とか、過程とか、その主義主張はどうでもいいけれど、面白いことがやりたい。
ひととたのしい時間を過ごしたい。
たくさんのひとと、大声で話してお腹を抱えて笑っていたい。
たのしいの大好き。
一生、たのしいことして生きていきたい。
こどもも大好き。
娘のことも、もちろん大事。
だいすきなたのしいひとたちと、美術のことだいすきなひとたちと、こどもたちと、ママ友と、昔のともだちと、いろんなことしてパーティして遊びたい。
美術もパーティみたいなことがしたい。
料理も作るし、お酒も飲むし、映像作品流して、へんな絵がところどころに飾ってあって、美術の話して、愚痴を言い合って、ゴロゴロして。
ああ、また書きながらたのしいこと思いついてしまって、問題のホームページの作り方に答えがでないまま終わってしまった。
最近亡くなってしまった友人は、こんな状態みたらなんていうかな。っていつも思いながら活動をする。
死者は、岡本太郎も、そうやって、わたしの背後から守ってくれるように都合よく檄を飛ばしてくれる。
自分は、まだソッチ側に行っちゃいけない。といつも思う。
結果が出ていれば、そんなことも考えないのかも。
だけど、乖離すればするほど、自己肯定感は下がる。
この前会った子は、わたしはキリスト教マインドぽいと言ってくれたんだがそれはありそう。
中高てキリスト教だったらそりゃそうなるかも。このパーティ感。隣人愛する感。博愛感。それはそれで疲れるよね。
それぞれ正しい道徳観で社会生活をするんだけど、ある時とても疲れてしまって、爆発したくなる。だけどそれって作家としては非常に無責任な気がして、何のコーディネートもしないまま爆発するのは、非常に稚拙な行動に思える。
何のために作家やってるのか、って思う。作家とは、社会であるから、しっかり意見をもっていないといけないと思う。それぞれ作家の秩序や理論があって、どんなかたちであれ作家のポリシーや思想を体現していかなくては、非常に趣味的で、作家の内部の美学を感じ取ることは難しい。
静と動を使い分けても、公と個を使い分けても、秩序と無秩序を使い分けても、その反復は本質的には同じで、矛盾をも同性質として視覚化することを美術は好む。あらゆる運動やオブジェクト、それらを包括する時間をも、作家や作家のグループらは同性質として扱っていて、表層的な一面を取り除けば最後には同性質な思想が残る。
美術運動というのは、本質的には実際に手で行った様々な活動やオブジェクト、オブジェクトの様相、視覚的な配置や色なんかは非常に“結果的”で、その本質を司る部品になるには程遠い。
本質とは、なぜその作家らがそれらを行い、パフォーマンスとして振る舞ったかの動機やメカニズムのことで、表面的な視覚性とは本質が漂白されたものである。だからわたしは形式や様々な図像の連鎖には反応する必要はなく、worksとしてだけ振る舞っていれば良い。
つまり理論がやはり重要であり、理論がアートの本質である。図示していくことやその理論に伴った絵画やドローイングやポスターなどでの視覚化。爆発的な開放をも、精神の社会的な解放となった要因を突き止めること、これがアートである。アートとは、表層的な局面に感嘆し、その後本質的な理論に到着する過程のことである。
(2021.6.3,本日の納得度87%,現代美術研究所湘南支部にて,Yoshiko FukushimaとのZOOM対話前にて.後藤てるみ)