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【短編小説】嘘つきは兵隊のはじまり
呼び鈴が鳴った。幸子は回覧板かしらと思いながら玄関へ向かった。
「はい、どちら様ですか?」
「時介です」
懐かしい声に急いでドアを開けると、4年間、何度手紙を出しても音沙汰のなかったひとり息子の時介が立っていた。幸子は涙声になり、
「時介! おまえ……今まで何をしてたの?」
「お母さん、お久しぶりです。何も連絡せずすみませんでした」
「まあまあ……とりあえずお入り。お腹空いてないかい?」
「大丈夫です」
2人して茶の間に入った。幸子はいつもひとりなので、時介がいると部屋が小さく見えてしまう。
「まだ東京に住んでいるんだろう? 私の手紙は届いているかい?」
「はい」
仕立ての良い背広を着て垢抜けた時介を見て、幸子は何か悪いことに手を出しているのではないかと心配になった。お茶を出して時介と2人でちゃぶ台を囲んだ。
「帰ってくるなら前もって言っといておくれよ。ご馳走を用意したのに」
「いいんです。今日はお話があってまいりました」
「話っておまえ……どれだけ心配したと思ってるのさ。返事のひとつも寄越さないで」
「はい……申し訳ありませんでした……実は、」
時介はコホンと咳払いした。
「軍に志願することにいたしました」
幸子は目を見開いた。あんなに嫌がっていた入隊を決めたなんて。
「どうしたんだい? 何があったんだい?」
「僕ももう20も半ばを過ぎました。このままではいつまでたっても死んだ父さんに認めてもらえないと思ったんです。お母さんにも心配ばかりかけて……自分を見つめ直したんです。やはり僕には軍人だった父さんの血が流れていますから、この命を国を守るために使うべきだと思ったんです」
不自然なほど改まっている時介の態度に、なんだか胡散臭い話だと幸子は思った。
「でもおまえ、あんなに嫌だって言って逃げ出したんじゃないか。そんな急に変わるものかねえ……ところで、そのまっちゃっちゃの髪はどうしたんだい?」
「入隊しても馬鹿にされないように染めました」
「その背広は? おまえの歳で何をやったらそんなにいい服が買えるってんだい?」
「昼も夜も必死で働いたんです。人は見かけからっていうじゃありませんか」
「へえ、見かけばかり気にするおまえみたいな人間から"お国のために命を捧げる"なんて聞いて、信じる人がいるのかね?」
やはり母はひと筋縄ではいかないと思った時介の額には冷や汗がにじんだ。何も言い返せないと見た幸子は、ここはとことん嘘に乗って発破をかけてやろうと考えた。
「いいよ、好きにおしよ。おまえがどこで何をやっているか分からないまま刑務所行きにでもなったら、お母さんだってお父さんに顔向けできないと思ってたところだよ。おまえが本当に軍隊に入ったら、ご近所さんにも鼻が高いよ。いいかい、一度覚悟したことなんだからとことんやるんだよ。お国のために戦うんなら、どんな死に方したって誇らしいんだよ。英霊に加われるんだよ。そうしたらご先祖様だって子孫だって救われるんだよ。まあ、子孫はいないけどもねえ……おまえ、いい人はいないのかい?」
「はあ、まあ……いません」
「出征まえに結婚させて、できれば孫をという昔の人の気持ちが、今は痛いほど分かるよ。嫁や子どもがいれば死なないで帰ってくるぞっていう覚悟が、ひとりものとはまるで違うからねえ」
「あのう……死ぬ覚悟と帰ってくる覚悟と、どちらを持てばよいのでしょうか?」
「そりゃあおまえ、両方だね。敵に向かっているときは死んでも勝つぞと覚悟するんだよ。もし運良く生き残ったら、どんなにお腹が空いてみじめな気持ちになっていても、絶対に生きて帰るっていう、覚悟というよりも、もう意地だね、意地」
「は、はい……」
この母親にはいつも言いくるめられてしまう。連日の手紙攻撃をやめさせたいがためについた嘘なのに、何を目的に来たのか忘れてしまいそうだ。
時介が自分の不甲斐なさを背負って帰ろうとしたときに、玄関先で幸子が念を押した。
「人様には迷惑かけるんじゃないよ。天国から見てるお父さんに恥ずかしくないように生きるんだよ」
毎度毎度の母の口癖である。
「分かりました。お母さんもお元気で」
母の視線を背中に痛いほど感じながら、時介は家から離れていった。そして東京に戻り、夜の街で相変わらずの生活を送った。
*
3年後、時介は北の前線にいた。敵に奇襲されて奪われた要塞を奪還するべく新たな地下通路を掘っていたのだが、完成間近というところで新たな任務が与えられた。時介たち二等兵3000人は体当たりで敵に正面から向かえというものだ。その間に別働隊が敵の退路を断つために背後に回り、地下通路を貫通させた瞬間に精鋭たちが要塞に忍び込み、内部から敵を一網打尽にする作戦である。
決行の前の晩、二等兵3000人を前にして師団長じきじきにお言葉が述べられ、希望者には酒と煙草が振る舞われた。
時介が軍隊に入ったのは1年前である。働いていた風俗店が従業員の女の子たちを使って組織的に美人局をしていたことがバレて、スタッフ全員が検挙されたのである。軍と手を結んでいる警察は、刑務所で4年暮らすか2年の兵役かのどちらかを選べと迫った。捕まった7人のうち時介だけが兵役を選んだ。このときに時介は「血は争えない」ということを実感したのだった。
最後の晩餐を終えて兵舎の大部屋に戻ると、皆言葉はなく、それぞれが何かを書きつけ始めた。時介もこの日のために全員に用意された便箋を使い、母に手紙をしたためた。
*
呼び鈴が鳴った。時介が嘘をつくために帰ってきてから3年経つが、幸子はこの音を聞くたびにまたあの子なのではないかと、いつもわずかな期待を抱いてしまう。
「はい、どちら様?」
ドアを開けると、そこには軍服を着た老兵が小さな箱を両手で持って立っていた。
「酒井時介二等兵のお母さまでよろしいでしょうか?」
二等兵……? 幸子は嫌な予感がした。
「……はい、そうですが……」
老兵は一歩進み出て、箱を幸子に突き出した。
「時介二等兵は、先の北の要塞奪還作戦において重要な任務に当たり、成功の一翼を担いました。立派な最期だったと聞いております」
幸子の顔から血の気が引いた。
「まさか、あの子が本当に軍隊に……?」
老兵は何も言わずに箱を幸子に渡した。そして胸のポケットから一通の白い封筒を取り出し、箱の上に置いた。
「時介二等兵からお母さま宛の手紙です。では失礼いたします」
老兵が出てゆきドアがバタンと閉まると、幸子は箱を体で包み込むようにしてその場に座った。まさか時介が……こみ上げてきそうになる嗚咽を我慢して、震える手で時介が書いた最初で最後の手紙の封を切った。折り畳まれた便箋に書かれている不器用な文字は、紛れもなく時介のものであった。あふれ出す涙を拭きふき、幸子は文字を追った。
お母さんへ
お変わりありませんか。ご無沙汰して申し訳ありません。
お母さんと最後に会ってからも僕はあまり人には言えない仕事を続けていましたが、1年前思うところがあり本当に入隊しました。訓練は厳しく何度もくじけそうになりましたが、今では重要な任務についています。先程「明日はこの国の未来が決まる重要な日だ」と師団長が演説しました。久しぶりに酒を飲み、タバコも吸いました。僕はこの任務を任せられて幸せです。もしも僕が変わりはてた姿でお母さんの元へ帰ってきても驚かないで下さい。僕は国のために命を捧げます。これでやっとお父さんとお母さんの子供になれます。今までありがとうございました。うそをついていたこと謝ります。ごめんなさい。もう一度だけお母さんの手料理が食べたかったです。お母さん、お元気で長生きして下さい。愛しています。さようなら。
時介より
幸子は読み終わった手紙を額に当てて泣き崩れた。箱から白い骨壺を取り出し抱きしめた。嘘をついていてごめんなさいだなんて……あのとき、嘘でもいいから「命を大事にしなさい」とひとこと言ってあげていたら、時介はこんなことにならなかったかもしれない、時介を死に追い込んだのは私なのだわ……と、幸子は今さらどうにもならない罪悪感に襲われた。
(了)