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#671 欲望論的アプローチ
カラスは黒い。
これは確かに真理である。
しかし、自分の認識している「黒」という色と、他人の認識している「黒」という色は違うかもしれない。
これは誰にも確かめることはできない。
今、遠くにカラスが見える。
このカラスは、確かにそこに存在している。
しかし、それはホログラムかもしれないし、幻想かもしれない。
これは誰にも確かめることはできない。
つまり、客観的な存在など、この世にないのである。
科学的に立証されているものも、実は不確かなのである。
絶対的な真理など存在しないのだ。
しかし、人間には「主観」が存在する。
確かにそこにカラスが見えるし、確かに「黒」だと認識できる。
カラスは「黒い体をした野鳥」だという意味を知っているし、遠くに見えるカラスもその意味に当てはまる。
そして、カラスは空を飛べていいなあと「飛ぶことへの欲望・感情」を抱くことができる。
この主観的な確信を、誰も否定することはできない。
このように、客観的な真理を一旦エポケー(保持)し、人間のもつ主観性において物事を捉える方法を、現象学の「欲望論的アプローチ」という。
この欲望論的アプローチを活用すれば、不確かで曖昧な「教育」という営みを捉えることができる。
「よい教育とは何か?」
「それはどのように実現できるのか?」
「よい教師とは何か?」
など、絶対的真理のない問いに、自分なりの解を導くことができる。
「確かに私は今、『よい教育』という営みを目の前にしている」
「この人は『よい教師』だと、確信をもって言うことができる」
そんな自分の主観性を、誰も否定することはできない。
そして「このような『よい教育』をしたい」「この人のような『よい教師』になりたい」と望んでいる。
そのように自分を突き動かすような「条件」や「構造」とは、一体何なのか?
それを把握し、他者に提示することが重要だ。
そして、より多くの他者が共通了解するように努める。
共通了解できないのであれば、他者との対話を繰り返す。
そして、さらに多くの人たちが共通了解できるような「よい教育」「よい教師」の「条件」「構造」を見出していく。
これが「欲望論的アプローチ」である。
これに鑑みれば、科学的に立証された「真理のようなもの」でさえも、その「条件」「構造」がたくさんの人たちに共通了解されているだけである。
「科学」も「教育」も、捉え方は同じなのである。
このようなアプローチをもとにすれば、どんな曖昧な概念や問いにも解を見出すことができるだろう。
ポイントは「自分を動かす欲望は何か?」「その概念を規定する条件や構造は何か?」を思考することである。
そして、多くの他者に共通了解されるよう、対話を繰り返すことである。
「教育」を含め、どんな分野・学問についても、絶対的な真理は存在しない。
それらについて話し合いをする際は、欲望論的アプローチを活用することが重要なのである。
ぜひ活用していきたい。
では。