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#1893 「教え」から「学び」に変わる学校

今回は、汐見稔幸氏の『学校とは何か』から得た学びを文章にしていく。


「できる・できない」と「主体的な学び」は違う

よく学校では、ペーパーテストで測れる学力が重視され、「できる・できない」で子どもは評価を受ける。

学力を身に付けさせるため、教科書に書いてある既存の知識をトップダウンで植え付けることになる。

しかし、このような「先にカリキュラムありき」の「先導型」はもう通用しなくなっている。

そうではなく、子どもの「やりたいこと」「学びたいこと」を重視し、試行錯誤のプロセスを支援する「後追い型」の教育が求められている。

つまり、「探究」を進めることで、子ども発の「主体的な学び」を生起させることができるのだ。

大人からの干渉が強いと友達を攻撃するようになる

子どもは、教師や親などの周囲の大人から、たくさんの干渉を受けて生活している。

このような干渉が強すぎると、自分に向けるアンテナがなくなり、その矛先が友達に向くようになる。

そして、必要以上に友達を攻撃するようになってしまうのだ。

本来、子どもという存在は、周囲の大人から守られ、支えられて生きていくものである。

これにより、自分の存在を大切にすることができ、結果的に友達や他者の存在も大切にすることができるのだ。

大人は子どもの失敗を先回りして干渉するのではなく、失敗を認め、励まし、支えていく心構えが必要なのである。

教師が与えた教材より、自分たちで発見したことを教材にする

「先にカリキュラムありき」で授業を構想すると、教師側が教材を規定することになる。

しかし、それでは学習意欲が湧かない子どもが出てしまう。

そうではなく、教師と子どもが「応答的関係」をつくる。

つまり、教師が一方的に教材を投げかけるのではなく、子どもとのやり取りを重視する。

このような応答的な関係の中で、学習内容や教材を決めていく。

これにより、子どもたちの学習意欲が向上し、「探究」という学びを生起させることができる。
※「探究」こそ、「学習の個性化」の典型であり、学ぶ内容を個別最適にすることができる。

どうすれば楽しんでくれるか?興味をもってくれるか?

教科書の内容をトレースする授業は、AIやロボットにも可能である。

そのような授業は「塾」で行えばいい。

そうではなく、「学校」という場の意義を再考する必要がある。

子どもたちの「学ぶ心」に灯をつけることができるのは、人間である「教師」だけである。

教師は目の前の子どもたちを思って、「どうすれば楽しんでくれるか?」「どうすれば興味をもってくれるか?」と試行錯誤する必要がある。

そして、教師自身が教材研究や授業を楽しむのである。

教師が楽しくなければ、子どもたちに学ぶ楽しさは伝えられないのだ。

教師の思考過程を子どもに押し付けない

教師は授業準備や教材研究をすると、自分の思考過程を固めてしまう。

そして、その独りよがりな思考過程を、目の前の子どもたちにも押し付けてしまう。

しかし、本来、学び方は子ども個々によって多様でいいはずである。

出来合いの型にはめ込むのではなく、子ども個々の思考過程を尊重する姿勢が重要である。

自分に合った学び方を自分で見つけてカスタマイズすることも、「自由進度学習」と呼べるのだ。

応え合い、立学

授業では、「話し合い」ではなく、「応え合い」を重視したい。

前者は、「一方的に話して終わり」という構図になり、意見と意見がつながらなくなる。

一方、後者には「反応」が含まれるので、自然と対話が生まれ、意見同士のつながりが実現するのである。

また、毎回「座学」をする必要もない。

「立学」つまり合法的な立ち歩きを組織し、自然な対話を重視させるようにする。

板書する内容は子どもの考え、板書を写すノート指導をやめる

授業における板書事項は、「子どものオリジナルな考え」や「子ども同士のやり取りで生まれた考え」であるべきだ。

つまり、子どもたちの「学びの足跡」を残すのである。

教科書に書かれている内容をわざわざ板書する価値はないのである。

教師が教えたいものは、事前に規定されているのだから、電子黒板にスライド資料で映せばよいのだ。

また、「板書内容をそのまま写す」というノート指導をやめる。

ノートには、自分が重要だと思った事柄だけをメモし、そこでイラストを添えるなど「グラフィックレコーディング」の技術を採用するようにする。

苦手を克服するのではなく、得意を伸ばす

学校教育では、ペーパーテストの「学力」が重視され、子どもの「苦手」を克服させることに躍起になっている。

しかし、「苦手」にフォーカスした指導では、子どもの学習意欲は上がらず、ますます勉強嫌いとなる。

これが「学習性無力感」につながり、他の分野にも負の影響を及ぼしてしまう。

そこで、必要になるのが「得意」にフォーカスしたアプローチである。

人間誰しも、「苦手なこと」と「得意なこと」を併せ持っている。

苦手なことが1つもない「超人」は存在しない。

社会では、みな自分の「得意分野」で勝負しているのである。

だったら、学校教育でも「得意」を伸ばす教育を重視すべきである。

それが「意欲」「動機づけ」の向上につながる。

そして、自分の「得意」を伸ばし、誰かのために貢献する。

自分の「苦手」は、他者からの助けを借りればよいのだ。

これは、教師の「現職研修」にも当てはまる。

「苦手を克服する研修」「やりたくないのにやらされる研究」などは、真の意味で力になることはない。

そうではなく、自分の「得意」や「強み」が生かせる研究・研修を進めるべきである。

教師が「やりがい」をもって働くことで、それが結果的に子どもたちの学びに還元されるのである。


以上が、書籍から得た学びである。

筆者が以前から主張していた「『教え』から『学び』へ」という考え方が、強くにじみ出ている書籍であった。

トップダウンで知識を「教える」時代は、もう終焉を迎える。

これからは、ボトムアップで、子どもの「したい」「学びたい」「やりたい」「考えたい」を重視する、「学び」の時代に突入するのである。

ぜひとも、自分の「学力観」「学習観」を変え、子どもたちの「学び」を後押ししていきたい。

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