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#1968 子どもは公教育を受けにきている
「教師は授業で勝負する」とよく言われる。
1単位45分間の授業の中身を極めるために、教材研究に努め、板書計画や発問を構想する。
巧みな話術がある教師は、子どもたち全員を話に引き込み、学習に没頭させることができる。
そして、学級全体で意見を練り上げ、より高次な考えに到達させる。
このような「教師主導の協働的な学び」を志向してきた世代にとっては、上記のような授業づくりの考え方は当たり前のことなのだ。
そうして、「協働的な学び」こそが「学校教育の意義」「学校に通う意味」だと主張する。
子どもたちは、上記のような「授業がうまい先生」に憧れを抱き、教師を大好きになる。
その反面、教師の提供する「おもしろい授業」に依存するようにもなる。
教師は、「自分の話術で子どもたちをノせることができる」と思い上がり、ワンマンショーの授業から離れられなくなる。
しかし、学校現場には、そのような「授業がうまい教師」だけがいるわけではない。
そのような教師は、「話術がある」からこそ、上記のような授業づくりを肯定できるのである。
だが、私を含め、口下手で話術に自信がない教師だってたくさんいるのだ。
そのような事実を無視し、自分の世界だけで物事を語ってはいけないのである。
何より、上記のような授業づくりは「持続可能性」に乏しいのだ。
いつでもどこでも巧みな話術で子どもたちをノせることなど、名人級の教師でない限り不可能である。
「教師主導の協働的な学び」信者は、「自分にしかできないオリジナルな授業をせよ」と求める。
子どもたちは、担任である「先生の授業」を受けたいのかもしれない。
だから教師は、目の前の子どもたちのために、「自分だけの授業」をしようとする。
しかし、勘違いしてはいけない。
子どもたちは自分という「先生の授業」ではなく、「公教育」を受けるために、学校に通っているのだ。
だとしたら、「公教育」の立場として、やるべきことがある。
「学習指導要領」の内容を身に付けさせることである。
そのための「学び方」を教えることである。
巧みな話術をもつおもしろい教師でも、話術などない平凡な教師であっても、「公教育」の役割を果たさなければならない。
そのためにできることは、「子どもが自ら学べるように学び方を指導すること」である。
「教師」という存在は、子どもの一生にかかわることはできない。
進級・卒業したら、「それで終わり」なのだ。
だとしたら、教師が毎回毎回、口を開けた子どもたちに「おもしろい授業」を提供している場合ではない。
それでは、将来、子どもは自力で学んでいくことができないだろう。
この構造から脱却し、子どもを「自律・自立的な学び手」に育てるためには、「教師主導の自分だけの授業づくり」から脱却し、「学び方をもとに自律的に学習を進める授業づくり」に転換していくことが求められる。
もちろん、「教師主導の一斉授業」を全否定するつもりはない。
そのような「自分だけの授業づくり」という仕事は、教師としてたくさんの魅力がつまっている。
それを全否定するのではなく、適度に入れ込む姿勢も重要だろう。
特に「道徳科」「特別活動」「総合的な学習の時間」などの授業では、そのような「協働的な学び」が適していると言える。
「教師主導の一斉授業」だけに盲信するのではなく、かといって、「自由進度学習」だけに盲信するわけでもない姿勢が重要なのだ。