#1870 一年間で形成される学級の習慣
「習慣」というものは、「正義」でもあり、「悪」でもある。
「良い習慣」は人生を好転させ、より豊かな未来に導いてくれる。
逆に、「悪い習慣」は人生を狂わせ、暗い未来に追い込んでしまう。
なので、「習慣」は正義でもあり、悪でもあるのだ。
学校という場には、「学級」という単位のコミュニティが存在する。
そこに君臨する「学級担任」の存在により、良くも悪くも一定の「習慣」が子どもたちに身に付くようになる。
学級経営は「一年間」というスパンで展開される。
この一年間という時間の中で、無意識的に、様々な「習慣」が身に付くのである。
たかが一年間であるが、されど一年間である。
例えば、整理整頓に厳しい担任のもとでは、整理整頓の習慣が身に付く。
言葉遣いに厳しい担任のもとでは、正しい言葉遣いの習慣が身に付く。
逆も然りだ。
整理整頓に疎い担任のもとでは、整理整頓を「しない」習慣が身に付く。
言語感覚に疎い担任のもとでは、「不適切な」言葉遣いの習慣が身に付く。
このような習慣が、「一年間」という時間をかけて、徐々に形成されていくのである。
そして「一年間」という契約が切れれば、次の担任のもとにおいやられるのだ。
この「習慣」という「恩恵」または「弊害」を一番味わうのは、次に受け持つ担任である。
子どもたちに形成された良くも悪い習慣は、次の担任のもとに「恩恵」または「弊害」という形で晒されることになるのだ。
そして、この「習慣」というものは非常に恐ろしい性質を有している。
それは「なかなか変更がきかない」ということだ。
一年間という期間で徐々に形成された「習慣」は、この時間経過でより強固なものになっている。
この「習慣」を簡単に変更・修正・削除することは難しいのである。
その習慣が「恩恵」であった場合、次の担任は前の担任をありがたく思う。
しかし、それは「弊害」であった場合、次の担任は前の担任を恨んでしまう。
この「弊害」として悪い習慣を変えたり、なくしたりするためには、時間をかけていくしかないのだ。
目指すべき「新しい習慣」を目標にし、その形成に向けて、徐々に指導していくしかない。
当然、子どもたちからは反発されるだろう。
「前の担任はそんなこと言ってなかった」
「前の担任は許してくれた」
「前の担任と違う…」
このような反発は、実際に口に出されるかどうかは別として、確実に表れるはずである。
それでもなお、新しい担任は、子どもたちからの反発を受け止め、新しい習慣化に向けて動き出さなければならない。
でないと、新しい習慣は形成されないのである。
そして、一年間をかけて地道な指導を積み重ね、子どもたちからの反発を受け止めながら、新しい習慣化に成功する。
学年末を迎えれば、契約が切れ、また次の担任に追い出していく。
しかし、その次の担任が自分とは違った「タイプ」の教師であれば、また別の習慣化がなされる。
せっかく前の悪しき習慣が改善され、望ましい習慣が形成されたにもかかわらず、次の担任の手により、また悪しき習慣に侵される。
この繰り返しに陥るのだ。
このようなループの中で、一番被害を受けているのは「子どもたち」
である。
大人の都合・タイプ・教育観により、様々な習慣化が「一年間」というスパンで繰り返されていく。
子どもたちはそれに振り回されることになる。
こうして「担任ガチャ」に外れた子どもたちは、悪しき習慣に侵されたまま、次の進学先に追い出されてしまうのである。
この構造を変革する手は「今の」日本には存在しない。
学級経営の内実は、完全に学級担任の裁量に任されているからである。
なので、担任のタイプ・教育観により、良くも悪くも何らかの習慣化がなされてしまうのだ。
よって、今の担任にできることは、できるだけ悪い習慣が形成されないよう、できるだけ良い習慣が形成されるように、日々の指導を続けていくことだけである。
また、子どもたちにはそれぞれの「家庭環境」が存在する。
そのようなそれぞれの家庭環境により、子どもたちには良くも悪くも何らかの習慣が身に付いている。
この「家庭環境により形成された習慣」も、簡単に変更・修正・削除することはできない。
教師が明確な「信念」「方針」をもち、子どもたちに一貫した指導を一年間続けていくことで、より望ましい習慣を身に付けさせていくことができる。
「今の」日本には、この道しかないのだ。
私は「一年間」という定めされた契約期間で、目の前の子どもたちに、できるだけ望ましい習慣を形成させられるように、日々の指導に精進するのみである。
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