退屈な人生に幸あれ! 『暇と退屈の倫理学』
國分功一郎先生著、『暇と退屈の倫理学』に出会ったのは、今から3年前だった。現在、書店に平積みされている新潮文庫の版が出る前のこと。
たとえ一般向けでも哲学書なんて読んだことなかったが、帯の文章に惹かれ、気づくとAmazonの購入ボタンをポチッと押していた。
平易で短いセンテンスにも関わらず、心に深く突き刺さる。いい文章ってきっとそういうものだ。
本が家に届くと同時に夢中で読んだ。「暇と退屈の」原理論、系譜学、経済史、疎外論、哲学、人間学、そして倫理学。
様々な角度から、暇と退屈の正体が明らかになる。それぞれの章がとてもエキサイティングに絡み合って、結論へとつながっていく。
挙げられる一つ一つの事例を、自分の経験と重ねてこういうことかと理解する。それまでただの思い出、ただその時の感情だったものに、意味がつけられる。「消費と浪費の違いってなんだ?」國分先生にそんな風に問いかけられるたび、「なんだろう」と思考が働く。
多分その時、わたしは哲学をしていたのだろう。
暇と退屈の中に生きられない
退屈を埋めようと必死の毎日。
知り合いのある人が、「若い頃、やることがなくて丸一日かけて爪を切っていたことがある」と言っていた。
「えー寂しい!」と周りの人は笑ってて、わたしも一緒に笑ったけど、その人の気持ちはよくわかる。何もない空白の時間より、爪を切るという目的がある時間を過ごしていた方が、退屈の恐怖に向き合わなくていい。
「退屈だ」という声から逃げたくて、コスパタイパの呪文を唱え、何か「意味のあること」「意義のあること」をしていないと落ち着かない。空白の時間に耐えられない。
だから自己啓発書を読んでみたり、資格の勉強をしてみたり、投資の勉強をしてみたりするけど、どこかむなしさを感じる。わたし、このまま人生を「消費」していいんだっけ。
『暇と退屈の倫理学』はそんなわたしに、暇と退屈を受け入れることを教えてくれた。
暇と退屈から逃げずに、受け入れて、「暇だなぁ。何をして遊ぼうかなぁ」と思う。なんて心地いいんだろう。
人は、暇と退屈の中には生きられない。でも、暇と退屈がない人生はむなしい。
バラは「飾った方がいい」ものではなくて、「飾られねばならない」のだ。
退屈な人生に幸あれ!
人文書を読むこと
もし、人の仕事がAIに替わった時、人間は退屈の恐怖と向き合うことができるのだろうか。もし、戦争や病気や、人類が戦ってきた敵がいなくなって、そして労働からも解放された時、人類の次の敵は退屈になるのだろうか。
3年越しに『暇と退屈の倫理学』を読み返して、そんなことを考える。
この本をきっかけに、人文書を読むことが増えた。スピノザやハイデガーといった哲学者を知った。わたしの中にはわたしの知らない世界があって、人文書はそれらに出会わせてくれる。そうしてもっと大きい、世界の問いへとつなげてくれる。
今も、退屈に囚われて逃げたくなって、人生を消費しようとしてしまう時がある。そんな時、わたしはこの本に戻ってくる。
3年前、太田出版版『暇と退屈の倫理学』を読んでしばらくして、新潮文庫版が出版された。帯にはオードリー若林さんの推薦文が掲載され、書店に平積みされるようになった。そうやってベストセラーになる前に、このとてもエキサイティングな本を自分の嗅覚で探し当てたということは、わたしの密やかな自慢だ。
わたしが好きだった文章は裏表紙の方に隠れてしまったけど、多くの人がこの本を読んで、同じように人文書を読む楽しさを知ってしまったのではないか。
そう思うと、なんだかとても嬉しくなるのだ。