結社はリベラリズムでない(ところが良い)

 自分が答えを持っているわけではないけれど、結社の「機能」に関してはそれを代替するものっておそらくけっこうあると思う。なので、「結社ならでは」ということを考えるなら、結社の「原理」を見てみると良いのではないか。
 で、その「原理」がリベラリズムではない、ということがけっこう大事なのではないかと個人的には思っている。現実の結社では作歌については「おのがじし」であったり、「指導も干渉もしません」だったり、リベラリズム的な理念を標榜しているところもあるが、結社自体はリベラリズム的ではないと思う。どういうことかと言うと、結社=個人の集積ではない、ということだ。
 まだちょっとわかりにくい? 実はこのへん、私もまだぼんやり考えているだけであって明確に言語化できていないところなのだ。しかし、何となく皮膚感覚で捉えられているのは私がカトリック教会に通っているからかもしれない。さて、教会(エクレシア)とは何だろう? 建物のことじゃないですよ。
 そんなことを考えていると、たまたま読んでいた「京大短歌」30号で吉川宏志が以下のように発言していた。

内田(樹)先生の『コモンの再生』という本があって、コモンとは共有地のことなんですけど、結社というのもコモンで、誰もが気持ちよく発表できる場であるべきなんだけど、自分のことだけを考えていると駄目なんです。半分ではなくていいけど、四分の一くらいは他人のためにやるんだという感覚を持つことが大事な気がするんです。

「京大短歌」30号、131-132頁

 この吉川の発言も結社について考える上で参考になる。
 ただ、現代人はリベラリズム的な原理に慣れ過ぎていて、結社もそのようなものだと思って入会すると、その後が辛くなるんじゃないか。
 つまり、結社が(ファーストフード・チェーンのように)様々なメニューを用意してくれていて、自立した個人である歌人が自己責任に基づいて対価を払って自由にそれを選択できる、という発想で行くとあまり上手く行かないように思う。SNSを起点とする歌会などはまだまだリベラルな原理で動いているのではなかろうか。
 自由に選択できないってそれって嫌じゃない? と思うのは、先にも述べたようにわれわれがリベラリズム的な原理に慣れ過ぎてしまって、それ以外のあり方をなかなか想像できないからではないかと思う。
 自分が選んだわけじゃないことで自分の短歌や歌人生活が変わっていくのってなかなか愉快なことですよ。

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