「条件の平等」と「承認」①

 マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房、2021年)を読んだ。私にとって、能力主義(メリトクラシー)とそれに伴う「選抜」というのが最近の関心事なのだ。「選抜」された一握りの人の立ち居振る舞いが世界を動かしていく。その活躍は眩しいほどで、多くの人の憧れを誘う。それゆえ、人々は自分も「選抜」されようと悲壮な奮闘を繰り広げていく。そのことが良いのかどうか――これは短歌の世界に関して言っているのだが。
 本書では、能力主義的エリート(高学歴のテクノクラートやリベラル派の政治家が当てはまることが多い)の驕りや偏見が豊富な実例をもって明らかにされていく。しかし、サンデル自身は

能力に基づいて人を雇うのは悪いことではない。それどころか、正しい行為であるのが普通だ。トイレを直してもらうにために配管工が、あるいは歯の治療のために歯科医が必要だとすれば、私はその仕事に最適の人物を見つけようとする。

マイケル・サンデル『実力も運のうち』p.50

と述べているので、能力そのものを否定しているわけではない。ましてや、能力よりも人種的・宗教的・性差別的偏見を優先して人を雇うような不公正を許しているわけではない。
 また、ジェームズ・トラスロー・アダムズという作家が1931年に書いた『米國史』で、アメリカ議会図書館を

老いも若きも、富者も貧者も、黒人も白人も、重役も労働者も、将軍も兵卒も、著名な学者も学童も、みなが、自分たちの民主主義が提供する自分たちの図書館で本を読んでいる。

マイケル・サンデル前掲書p.321

と、このように描いているのを民主主義の理想のように引用しているので、知性や教養を否定しているわけでもない。
 では、能力主義の何が問題なのか。
(次回につづく。たぶん)

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