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支援するということ。

子どものために。教員のために。未来のために。。。
とかく「~のために」という言葉が多く聞こえる「教育」領域にて過ごしています。

これから「(公)教育」は、
“年長者・物知り等が、年少者や知識のない方に「(自分の知っている)事柄を伝達する」ことが主な教育手法”
という世界ではなく、
”年長者・物知り等が、自分の「知らないこと」「できないこと」も含めて、年少者の知識習得や創造性の伸長を支援することが主な教育手法”
である世界に大きく変わると思いますし、変わるべきだと思います。

この文章だけ見て、同意される方も少なからずいらっしゃると思います。
では、「支援する」ときは、どのようなことが大事なのでしょうか。

まず、自己体験を2つ、ご紹介したいと思います。

寄付を断った友人

この記事を書いている1月17日。26年前は阪神・淡路大震災が発生した日です。(全くの余談ですが、このテーマを書こうと構想し、文章が頭の中でまとまったのが1月17日というのは、偶然か必然かと、驚いています)
当時都内の大学生だった私は、30kg近い大きなリュックを背負い、単身で関西に向かって、数週間のボランティア活動を行いました。

ボランティア活動に勤しんでいたのは、被災した神戸母子寮の住民が避難していた施設でした。(大学時代、子供会サークルに入っていた経験を生かしてほしい、と、関西のボランティア拠点の方にお願いされたため。なお、上記「神戸母子寮」の記事に登場する岡本由美さんが、ボランティア時にとてもお世話になった職員さんの1人です)
都内に戻り、神戸母子寮再建のため、友人たちに寄付をお願いする行動をとりました。

相当関係性が深い(今でもやり取りがあります)Kという友人がいました。
Kに詳細を説明し、彼は頷きながら聞いてくれました。そして「寄付お願いしていい?」と切り出しました。当然協力くれると思っていました。

「ごめん、俺、パス。」と、にこやかに、優しく、彼は伝えました。
想像していない返事だったのでかなりの衝撃でした。彼は、彼の周りの人たちをいろいろと助けるタイプの人間だったからです。
率直に申せば、「友人が大事にしているもの」というだけでは支援をしない、という意志表明です。

支援という名目で届けられる衣類の仕分けで1日が終わる

もう1つ、阪神・淡路大震災の際のボランティア活動のときの経験です。

関西に乗り込んだ1日目は、西宮市にて、物流倉庫に届いた支援物資の仕分けで1日を過ごしました。
自分が担当した仕事は、衣類の仕分け。

倉庫の天井近くまでうず高く積まれた衣類から、必要なもの(防寒着等)を選び取り、不要なものは廃棄へ回す…その仕事で1日が終わりました…。
多かったのは、子ども服や夏服だったと記憶しています。

「自分にはもう不要な衣類。でもこの衣類に困っている人が誰かいるかもしれない。だから支援物資として送る。」

そんな気持ちで(送り主は)衣類を送ったのかもしれませんが、「自分は不要」が先にある支援は支援ではない現実を目の当たりにしました。

支援するときに大事な点

以上の2つの経験から、自分は支援する時に大事な、次の2点に気づかされたと思っています。

1つめは、相手に必要とされることが絶対であること。相手に必要とされることを強く意識していること。
こうかくと当たり前のことのように思えますが、上記の衣類仕分けの例から、この当たり前を怠っている支援行為が実際には相当ある気がします。

「自分には不要、だけど相手には必要かもしれない」これって本質的には支援の姿勢ではありません不要なものは不要なんです。もちろん結果として支援につながることはあるかもしれませんが、それは相手が「必要」としていることが”たまたま”あった結果論に過ぎません。

(不要なものでも、誰かにとっては)必要としているかもしれない、が先で行う支援は迷惑になることもある、ということを自覚しておくべきだと思います。

2つめは、自分のできる役割を果たすことに注力すること。その上で、自分に果たせる役割を大きくできるよう自己研鑽していくこと。
1人が支援できる範囲は限られています。その時に、自分が最も(社会において)果たせる役割を果たすこと(を意識していること)も大事だと思います。

寄付行為は誰にでもできて、相手が必要としていない場合は基本的にないので、上記1つめの観点においてはほぼ絶対的に「素晴らしい」支援です。
しかし、(言うまでもないですが)支援する側の金銭的な限界から、全ての「困った」に金銭的な支援をするのは、1人の力では限界があります。
だから、上述したKの例は、Kが、自分には、他にもっと果たしたい役割がある(だから今は私の声掛けには応えられない、ごめんね)、という表明だったんだと思います。

そのような姿勢が私にはとても勉強になり、自分が成長することでより他者を支援できる人間になれるんだ、という(考え方の)理解につながりました。

たけしさんのtwitterにある、たけしさんの座右の銘「ぼくはぼくとぼくの好きな人のためにがんばる」という言葉、ずっと心に響いています。
これは、(いわゆる)自分勝手な態を表す言葉ではなく、自分が大事にしていること、自分が大事にしている人が大事にしていること、そのために全力で頑張る、ということであって、この姿勢があれば結果として、自分という人間と生み出す成果が大きくなり、役割も大きくなり、(ここでいう)「ぼく」が支援したいと思う時も、支援する領域も、両方増えると思います。

教育が、本当の意味で「子供の成長の支援」になるために

上記の2点を述べた上で、「教育」領域における特殊な事情があることに触れます。
それは「(当事者が)必要と“感じ”ていないことでも(教育を為す側は)役割を果たさなければいけない」という事情です。
「その時点での当事者」の資質・能力・理解・感性…では「(必要性も含めて)わかっていない」ことを「(最低限、ゼロ、ではない程度に)わかってもらう」ことで、社会に出てから必要と思われる(その時点での)資質・能力・理解・感性…を身につけてもらわなければいけないシーンが相当程度発生する行為ですから。

普段自分の活動している領域が、「教育」の外の方には、上記のことをご理解いただければと思います。
誤解を恐れず申せば、その時点で子供という当事者(とその関係者(保護者等))が「必要」と「明確」に感じている「教育」は、その時点で「本当に、かつ最も為すべき教育」”ではない”場合が相当発生するのが教育という営みだと言うことを。

一方で、普段自分の活動している領域が、「教育」の中の方には、「(当事者が)必要と”感じ”ていないことでも為すのが教育だ」という考え方だけに拘泥し過ぎないよう注意を払ってほしいと思います。
この考え方が「過信」になると、「自分が「良い」と思っている「教育」」が全てとなり、理解させる内容、教育手法、使用する教材…などが社会の要請と著しい乖離を生むことにもなりかねないので。
※誤解を恐れずに申せば、現在の教育現場でこうなってしまっているところも多い気がしています。

上記を鑑み、自分は、「教育」の中にいる人間として、次の2点を大切にしようと思っています。

1つめは、自分が”欲求的”に「支援したい」となりすぎないことです。
いま、自分は、教育とICTの領域で多くの業務に従事していますが
・子供にとってICTは必要だ、だから子供にもっとこうさせたい、、、
・教科学習にICTは必要だ、だから教員はもっとこういう技術を身に付けてほしい、、、
等、教える側が、客観的な必要性以上に、~してほしい、という個人の”欲求”が上回ってはいけないと思うのです。

子供にとって、教科学習にとって、ICTは必要だとは私も(業務を抜きにしても)思います。
一方で、そこから、「こうさせたい」「こういう技術を身に付けて欲しい」などの思いから、内容・手法等について自らの知見を用いて「支援する」際の具体については、主観の領域に入らないよう、常に自分に「これがbestか?」「自分の強みの押し付けになっていないか?」と問い続ける自分でありたいと思っています。

~してほしい、の主観の色が強く出ると、そもそも「必要と感じていない」受け手は遮るだけです。
わかりやすい例は、チョーク&トークの教員がICTの利用を拒む、等ですね。そのような姿勢に対しては私も疑問ですが、一方で極力拒まれないような客観性や(相手の)納得性を持ってコミュニケーションしたいと思っています。

2つめは、根本的なことですが、信頼されることです。
教育という営みによって、どれだけ「良い」ことを伝えたり施したりしようとしても、信頼が十分ではない方の言うことは聞かない、ということに強く自覚的であるべきだと思っています。
モノやサービスの商売においても、特定のモノやサービスの購入に「必要としている」+「信頼している」の両方の要素が多くの場合において必要なのですから、ましてや「必要としていない」相手に対してアプローチする時には、「信頼」のウェイトは高くなるわけですから。

「子供の成長を支援」するためのヒントになれば幸いです。

最後に、本記事を、1月17日、阪神・淡路大震災が発生した日に書いている自分がいることの意味を自分に問いたいと思うとともに、本記事が阪神・淡路大震災のことを記憶に留める一助になればありがたく思います。



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