ときどき考えること ⑧
高校生のテスト期間が始まると、私は不機嫌なことが多くなる。 笑
外国語を学ぶ力は、やはり母語に影響され、母語に影響すると思うことしきりだ。
私は、国語の成績が悪かったから、当時、周囲の大人に挙って「このままだと英語もわからなくなる」と言われ続けた。
けれど、私は、どちらかというと英語を通して日本語に興味を持ち、「国語」という科目ではなく、日本語にも気を遣うようになっていき、受験で国語が足を引っ張ることはなく、私の英語の成績や英語力に日本語が足かせになることはなかった。
以前、母校の中学校・高校の校長先生の秘書を長い間されていて、私のこともよく知っている方が、「てらこや新聞」に書く私の日本語での文章を見て
「あなたがどんな英文を書き、英語を話すのかがよくわかる文章ね」
と、おっしゃっていたけれど、私は英語を学べば学ぶほど、日本語に興味を持ち、日本語での文章を書くのも楽しくなっていった。
昨日ー
高校1年生に喝を入れて、そんなことを思い出した。
彼女の言いぐさは、いつも「一人称」しか存在しなくて、
好き嫌い
嫌か嫌じゃないか
したいかしたくないか
が、判断基準になっている。そして、なぜだか、
その自分の事情や思いはいつも相手には伝わっているものだという前提の発言が多い。
昨日は、彼女の要望をピシャリとはねのけたあと、しばらくふつふつと腸が煮えていた。そこで、他の生徒の相手をしながら、自分の憤りを収め、授業後、彼女に解説をした後、少し苦言を呈した。
「あなたが報告に出したという紙を見せてもらってもいない私に、あなたが説明を一言もしないままで、それが伝わっていたとすれば、私は千里眼があるか、超能力者だ。私は千里眼も持ってもいなければ、超能力者でもない。」
と、前置きをして
「あなたの英語の成績だけではなく、他の科目も含め成績が良くないのも、全て、そこに集約されると、私は思う。」
と続け
「英語にしても、数学にしても、他の科目にしても、出題者には意図があり、出題者がなぜこの設問をしているのかをしっかり考えて問題は解くものだ。自分はこう思ったとか、私はこうしたとか、私はこれだけ頑張ったとか、相手にはそんなことどうでもよいし、私も、そんなこと「しらんがな」と思っている。でも、わかってほしければ、あなたが説明をしなければならないし、しっかりと問題にしろ、会話にしろ状況を把握して、解答や返事をしろって話だ。」
というような内容を伝えた(つもりだ、、、伝わっているかどうかはわからないけれど)。
笑って、頷いてはいたけれど、きっとまだまだ何度も同じことを言うことになるだろう。
誰かが言わなければならないなら、私は喜んで何度でも言う。
この仕事は、嫌われてナンボの商売だから・・・
でも、
高校生にもなって、そんな話を、毎回、テスト毎に、誰かにしなければならないという日本の教育現状に・・・・・
不機嫌になりながら、
総選挙のニュースを聞くにつけ
「子育て」、「子育て」というけれど
政治には、「教育」の問題にきちんと向き合ってほしいと願わずにはいられない。