てらこやのひび ⑱
何を書こうかと考えていて、昔の「てらこや新聞」のあとがきを読んでみた。
2021年度4月号で
ーなぜ、私たちは子どもたちを学校に行かせるのか。
について考えていた。
私自身、学校が嫌で周期的に体調を崩し、年間30日ほど休んでしまう子どもだった。
いじめられているわけでも、友だちがいないわけでも、勉強が嫌いなわけでもなかったのだけれど、ただただ、存在しない「みんな」を強調して「責任より協調性」を押し付ける場所として、学校を捉えていたからだと思う。
でも、今となっては、行っておいてよかったとは思っている。
けれども、この24年余り、また特にコロナ禍が始まったあたりからの子どもたちの様子に、学校の「存在意義」を問う日々が続いている。
私は、
本来、学校制度は、社会的動物である人間の社会性育成のために作られた人間の英知の詰まった制度だと思っている。
でも、今、「勉強」ーというか成績や点数かもしれないーに重点を置きすぎて、学校がおかしなことになっているように見える。
どんな家庭のお子さんでも、とりあえず社会でやっていけるように育てるのが学校―義務教育機関―の存在の目的で、社会でやっていけるようなスキルというのは決して「勉強」だけではないはずだ。
勉強をするだけのところなら、学校じゃなくてもよいのではないかー
と、思ってしまう。
多分、私が今の子どもとして生まれていたら、そんなことを考えて早々に学校へは行けなくなっていたと思う。
一方、
昨日、
教材屋さんの寺子屋担当の言葉に、モヤモヤが消えず、しばらくして、ハッとした。
一般的に、塾もまた「勉強」を教える場所になっているからか。
と、今更ながら思った。
何を言っているのか、と思う方が多いかもしれないけれど、
私は、学校も、塾も「学び舎」だと思っている。
私は、はしくれでも「教育者」でありたい。子どもたちの、勉強ではなく、いろんな学びを助ける人でありたい。
だから、寺子屋の評価は、進学実績ではなく卒業生の活躍と心の豊かさで測ってほしい。そう思って毎日子どもたちと接している。それが簡単には伝わらないのだなぁと、昨日の会話で改めて実感した。
実際には、結果的に進学実績も悪くはないのだけれど・・・。