主体的な学びって何だろう。
私が、この仕事を始めて、ハッとして、子どもたちや日本社会の現状が少しだけ腑に落ちたのは、進学校出身者は、高校時代の同級生のほとんどが大卒なのだということに気が付いたときだった。
私は、進学校に行かなかった。中高一貫の私立中学校に進学し、高校は普通科だったけれど進学校ではなかった。卒業後の進路は、就職から専門学校、短大、4年制大学とばらばらで、国公立大学に進む生徒は地元でも本当に少なかったと思う。高校2年生のとき1年間アメリカで過ごし、留年しても、のびやかにゆるやかに自分のペースで勉強ができる環境で高校時代を過ごした。
その後、進学した日本の大学、アメリカの大学院で、バリバリの(?)進学校出身の日本人の友人たちと話すときにあった違和感が、何から来ていたのかが、分かった気がした。
そして、今、文科省の方々の掲げる改革も、政治家の皆さんが言うことも、なんだかなぁ~と思うというか、イマイチ庶民の実情に合っていないというか、私たちが日ごろ接している子どもたちのためにあまりならない改革や政策ばかりを考えつくんだなぁ~と思うのは、彼らの住む社会は、高校生のときから偏った環境で育った人たちのものだからではないか・・・と思ってしまう。
だから、「ゆとり教育」や小学校での「プログラミング授業」「英語の教科化」、そして「大学入試改革」、高校での「総合的な探求の時間」やら「主体的な学び」などという発想と、次から次へと首を傾げる話ばかり出てくるのではないのか、と思うのだ。
まずは、小学校・中学校の義務教育で「学ぶ姿勢」や「考える姿勢」を整えるそんな改革をしてほしい。「主体的な学び」のためにも、基礎を作る、主体的になれる土台を築くことを考えてほしい。
なんなら、高校も義務教育にして、「進学校」なんて概念をなくし、12年間かけて「主体的に学ぶ姿勢」を整えてはどうだろう。
この24年足らずの間、高校受験生への対応をしながら「主体的に考えさせること」は、何も教えていないのに思春期で自分の扱いにも苦しむ子どもたちに突然「決断を迫ること」ではないだろうに、と、言いたくなる場面に遭遇することが多い。
主体的に学び、自分の学びたいものを選択できる子どもたちを育てるためには、まず、学び方、考えるために必要な基礎をきちんと身に着けさせる必要がある。そのために、普通科高校や大学入試の改革の前にすることがあるのではないだろうか。