"擬態"のススメ
お久しぶりです。
てらいです。
新入学、新社会人、転職、転勤など、
4月になり、大きく環境が変わった方も多いかと思います。
じつは、僕も転職により大きく環境が変わりました。
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僕はこの33年間の間に「大きく環境が変わるイベント」がいくつかあります。
一般的な生活を送っていると、進学のたびにそういった環境は変わっていくのが常ですが、
転校や転職が多いですし、大学も2度入学していることを考えると、
もしかすると周囲のみんなよりは環境の変化が多いのかもしれません。
ただし、学校への入学は全員が同じタイミングで環境が変わるイベントなので、言ってみれば「全員同じスタートライン」ということになりますね。
(それはそれだからこそ難しいこともあるのだけれど)
今日は特に「既存のコミュニティに自分1人が飛び込む」ということにフォーカスして、お話したいと思います。
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私が新しい環境に飛び込む時に大切にしていることはただ一つ、
「擬態すること」です。
小学校1年生の時、横浜から大阪に引っ越したとき、
中高一貫校に高校から入学したとき、
新卒で入社をしたとき、転職をしたとき、
うまくいったこと、うまくいかなかったこと、いろんな経験があります。
それらの経験から伝えたい「擬態すること」の大切さ。
一番わかりやすいのは、日本における就職活動です。
「服装自由」と言われても、リクルートスーツで行きますよね。
全員がリクルートスーツを着用して、女性であればベージュのトレンチコートに、箱みたいな黒い鞄を持って。
そんな環境にデニムとパーカーで言ってしまっては、恥ずかしい目に遭ってしまうわけです。
「服装自由」と謳っている企業側ですら、「え、どうしたのあの子」と思ってしまうわけです。
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小学校の時、横浜から大阪に引っ越しました。
当たり前ですが、知ってる友達など1人もいません。
地域を越えた天候の経験がある方はお分かりかもしれませんが、
「言葉の壁」めちゃくちゃ高いんです。
大阪の小学生、もちろん全員が関西弁です。先生も関西弁です。
僕だけが標準語で自己紹介をして、標準語で全員と話をしています。
もはやみんなが標準語で、僕だけが関東弁で話している感覚ですよね。
小学校1年生ながらに、気づくわけです。
あ、これ関東弁のままだと友達できないな、って。
そして僕は1ヶ月で関西弁を完全にマスターするわけですね。
これが「擬態」の一種だと思っています。
「関西弁が話せないとマズい!」はもしかすると考え過ぎだったかもしれませんが、
その数年後、僕と同じように関東から転入してきた男の子がいました。
僕は自分と同じ「転校生」というカテゴライズだったこともあり、気にかけていたのですが、
どうしてもカタコトの関西弁が受け入れられづらかったようで、みんなとは仲良くなりきれませんでした。
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新入社や転職における入社の時にもやはり、擬態は大切です。
「郷に入りては郷に従え」も近しい考え方かと思います。
当たり前なんですが、その会社や企業に100%納得して籍をおけるはずなんてないんですよ。
賛同できない方針もあるし、気が合わない上司や先輩もいるし、
かったるい風習や伝統もあるし。
それでも、まずはその環境に「擬態」するんです。
「なんで朝礼で社訓読まなきゃいけねーんだよ」じゃないんです。
心の奥底ではそう思っていても、その時はその環境に溶け込むことだけを意識するんです。
同じ環境に数年いると、意識しなくてももうその常識とか伝統とか、
そう言ったものが心身に馴染んできちゃって、考えずとも擬態している状態になるんですよね。
それが、環境が変わってすぐの人にはなかなか難しい。
そうなると何が起きるのか。
その環境から、相対的にちょっと浮いちゃっているように映るんです。
「新入社員、まだ堅いな〜!」の時期はそれでもちろん問題ないです。
でもやっぱり、その期間は短く仕上げられればうれしいですよね。
「初々しさ」が「違和感」になって、「嫌悪感」になってしまう前に、
ストレスを感じてでも擬態することが僕は大切だと感じました。
だからこそ最初の1ヶ月は、社内政治を把握することに注力しています。
誰と誰はどんな関係か、潜在的な暗黙の常識は何か、
誰が必要悪の役割を担ってくれているのか。
それらを把握して、美しい擬態をしたいのです。
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前職では擬態に失敗しました。それが理由ではありませんが、結果として1年で退職してしまいました。
その会社がいわゆる「良い企業」だったことは自分でもわかっていたのですが、本当に自分が「社風」に合わなかったのだと思います。
そこに擬態しようと試みたものの、それすらできず、
そうなってしまうと最後、こちらからも興味を持ちづらくなってしまうんですね。これは新しい発見でした。
擬態することで組織やそのメンバーに対して親近感を持つこともでき、
興味が持てれば建設的な会話もできるようになると考えています。
組織と一線を画して、内側で自我を育ててしまいすぎることは、
組織やそのメンバーを否定することにもつながってしまいます。
それでも組織の方が社会的は力は大きいため、どうなるかというと、
「ああ、自分が間違っているんだ」という自己否定につながるんですね。
この時初めて「擬態すること」が自分を守ることにつながっているのだと知りました。
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これはあくまでも自分の経験からのお話です。
「擬態」なぞせずとも自分らしさを貫き続けているからこそ、人がついてくるということももちろんあると思います(羨ましいかぎり)
そんな人に憧れるし、そうなりたいと心から思います。
それでもそれができない私はこうやって擬態を続けて、
なんとか社会の一部になっているのだと思います。
そしてこれはずるいことでもないし、悪いことでもないのですが、
「擬態」が見透かされてしまうと、周囲にまた良くない視線をおくられることもあるような気がします。
ただ一つ「打算的に擬態している」という姿勢を明かさないべきであることだけ、ゆめゆめお忘れなきよう。