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Beautiful Dreamer

浴槽の栓を抜く方法を考えていた。なみなみに溜め込んだお湯をどこかにやってしまえないものかと、そんなことを繰り返し考えていた。羽織っている重たいカーディガンを椅子の背にかけると、靴下だけを脱ぎ捨てて、風呂場のドアノブを捻って押し込む。両膝を床の硬いタイルに置いて、右腕のシャツを肩のあたりまで捲り上げたら、静謐な気配を湛えている明るい緑色の湯に片腕だけを潜らせていく。するとおそらく松や檜が混じったような森林の香りがより濃く立ち上がる。そして擬宝珠に似た金具にだらりと垂れ下がる細っ

    • 背信者の覚え書き(後半)

      何度か口に含んでみたものの、コーヒーはまだ半分残っている。しかしそれで魔物が潜む余地はもうない。鼻骨の裏をなぞるように上がっていったとりとめのない追憶は、その濃厚な気配をすっかり失い、意識が筆の進まない紙の上を漂っている。こんなことでは困るのだというすがる気持ちが、ゆっくりと定まる焦点に負けていくのを受け入れながら、フレッシュをだらしなく注ぎこんでみた。オレンジ色の灯りを平凡に映していたコーヒーは、煩雑に白濁していく瞬間にだけまどろんで、やがて金色に恍惚する。頬杖をついたまま

      • ドラペトマニアの休日

        閏日の生まれなので、四年に一度しか歳をとらないんですよ。そう彼女は言った。だから人より子供っぽいんですと。近頃はそれこそ年に三回も四回も誕生日のある女としか話してなかったからか彼女の話は新鮮だった。カレーを持ち帰りにするとナンは一枚だけ、けどお店だともう一枚おかわりできるから、私はここで食べるんですと、指先でやんわりと折り曲げたナンの谷に大事そうにカレーを掬うと屈託なく頬張っていく。 以前仕事で一緒だったことがあり顔見知りだった。今もオフィスが集まるこの界隈を派遣で転々とし

        • さよなら愛しのテオ

          コーヒーをもう一杯と店員に注文したあなたの肩越しに寄せては返す波がみえる。癖のある髪。それを余念なく洗うようなあの力強い波打ち際に、もし石ころや割れたガラスの角を削るみたいな引き波の小気味よい音が混じっているとすれば、それに注意深く耳を澄ますのはおそらく翻弄されることにすっかり疲れてしまった口下手な漂着物たちばかりだろう。 ただ救いはそこにもあるはずだ。湿った浜に取り残されてなお、情熱を失わないものが紛れているのだ。それは指先で推し量るまでもなく一瞥しただけでも分かるところ