背信者の覚え書き(後半)
何度か口に含んでみたものの、コーヒーはまだ半分残っている。しかしそれで魔物が潜む余地はもうない。鼻骨の裏をなぞるように上がっていったとりとめのない追憶は、その濃厚な気配をすっかり失い、意識が筆の進まない紙の上を漂っている。こんなことでは困るのだというすがる気持ちが、ゆっくりと定まる焦点に負けていくのを受け入れながら、フレッシュをだらしなく注ぎこんでみた。オレンジ色の灯りを平凡に映していたコーヒーは、煩雑に白濁していく瞬間にだけまどろんで、やがて金色に恍惚する。頬杖をついたまま、それをぼんやりと眺める。あの日、ターンして戸田橋を躍起になって渡ろうとした私の眼に、ついさっきまで親密さすら感じさせてくれた荒川が、あまりに素っ気なく流れていたことだけはよく覚えている。あれから先生たちには会っていない。
なにかを告白するというのは、心の表皮をはがして果肉を露わにすることであり、明確な形で表出させる必要があるので、そこに痛みが伴う。その痛みこそが変化をもたらすという。だったらその不快な感触をインクで手探るように綴りたいものだが、今までの間違いにだって含まれるわずかな尊厳が、稚拙な文字に一緒くたに落とし込まれることに抗ってペン先が蹴つまずく。それで胸の底に沈殿した安い気取りが、ふっと舞い上がってしまうと、不服そうに幅をきかせてなかなか沈んでいってくれない。
この申し訳なさが手に余るのは、すっかり爛熟しているからだ。とどのつまり、うまく立ち回れずに、あちらこちらの信に背いてきた皺寄せで形を崩したオレンジは、いよいよ腐りかけている。まともに爪をたてようとすると気が滅入って仕方ない。紙切れにペンを走らせれば禁忌を破ったことをすべて帳消しにしてくれると言われても、さして期待などしないのだが、ただ手続きなんていうのはそういうものだ。この献身を端からいけぞんざいに寄せ集めてきて、二束三文で売りたたく。今までしてきたことをダメにする。それさえ満たせば成立することは分かってるはずなのに、どうしても進まない。
覚え書きで得られるささやかな変化。心拍の純潔は現実にこすれては発色し、いつからか青白い溜息ばかりをつかせてきた。だが今となってはそれすらずいぶんと色褪せた。こんなことは続けられないのだ。惜しむこともない。このまま椅子の背にもたれて少し寛いで、そして浅い眠りからさめたら、さっさと書き捨ててしまおう。
そう。幾日か前に、昼休みに入った牛丼屋で、先生とよく似た人が働いていた。ずいぶん長いこと顔をみていなかったので、注意深くその人物の様子を伺った。若い女性店員の苛立つ指示に戸惑いながら、狭い足場をよろよろと、額にかなりの汗を浮かべて、窮屈そうに右往左往している。結局、間近まできて食券をぎこちなく摘みあげていくまで別人だと判断がつかなかった。違うなと確信したのは、目が合ったときのくたびれた会釈もそうだが、もし先生なら、こうやって昼間から安い脂を舌にのせることすら許さないからだろう。自分に奉仕することを投げ出した人間には、一生冷や飯でも食べるようなことになってもらわないと気がすまない。そういう人だった。
瞼の裏に上澄のようにかかり始めた頭巾雲には、放送が終わった深夜テレビのカラーバーみたいな濃い色合いが含まれていた。そのせいで少し先にみえる牛丼屋の店内から柔らかく漏れる蛍光灯の色はどこか所帯じみた感じがする。ああ、あれこれと思い出していたからきっと、あの店で先生たちに会うことになるんだなと、そんなことを考えながら暮れなずむ街並みを歩いていた。
どんな顔をして、まずは何から話せばいいのか。高架橋をくぐる途中で頭の上をカタンコトンと電車が通り抜けていった。しどろもどろにならないように、空白の辻褄をきっちり合わせようと試みるが、どうも接続詞に角が立つように感じられる。レールの上を滑らせて何度かの正しい乗り換えをこなす。いつかの出会いから終点を定めてケジメをつけようとしているここまでの筋道について、こちらに落ち度がなかったことを無理矢理にでも飲んでもらうために、それこそ外郎売りの口上でも述べるかのように一方的に言い切ってしまいたい。けれどそれぞれのセンテンスが場当たり的に敷かれているせいでか、やはり繋ぎ目のところに粗が目立ってしまって、おそらく言い淀んでしまう。そんな不安を拭うことができない。
靴紐が解けている。しゃがんで結び直そうと弄ってみたが、なぜか指の間をすり抜けて逆にこんがらがっていく。考えてみればことさらに避ける理由などなかったのだ。もう続けられる気がしないと行く末を案じる肝の小ささが煩わしく裾を引きずるものだから、それをいちいち振り切るのに疲れてしまって足が遠のいていただけの話だ。・・・・・こんなこと続かない、こんなこと続かない、こんなこと・・・・・。崖っぷちに追い詰められるといつもリフレインしたフレーズ。あれがとめどもなく口をついたのは、つまり単純な反復だったということ以上に、間を継いでいた別の裏打ちによるところが大きかったのだ。・・・・・会えば別れるのが居た堪れなくなる。信義にもとることがあればいつも胸が燃え上がるようだった。痛みを分け合うことの意味を涙にまで感じていた・・・どこに隠れていたのかコーヒーに落ちるほどに小さかったはずの魔物が同じ背格好くらいになって正面にあらわれたかと思うと、ふいにかしずくようにしてあちこちにできた紐のコブを丁寧に解きながら結び直していく。こちらは少しでも距離をとるつもりで立ち上がる。騙くらかされているんだな。魔物がもう片方の靴紐を結び終えて手を離すと、あえて顧慮せずにその横を障害物を避けるようにしてやり過ごし、そのまま店の前で歩くことにした。
ドアを開ける縦長のボタンに触れてみるが、このまま押すべきなのかやはり悩ましい。ガラスはなんとなく曇っているものの、なかに歓談する人たちの気配が感じられる。躊躇しながら、それでもべったりとぬかずくみたいに圧力をかけた。踏み込んだ薄氷が割れる感触とともに視界が切り替わる。そこにはU字カウンターを囲んだ30名くらいの人たちと、その中心に幾日か前にみかけた顔。今回はすぐに分かった。先生だ。相変わらず冗長に語り続けているのだろう。耳を傾けてやや陶酔してるかのように頷くまわりの表情。笑い声。いつかの光景がそこにあった。言い知れない懐かしさがこみ上げてきたが、身の置きどころに困って、奥の隅の方の椅子が空いているのをみつけると、曖昧に会釈をしながら背中を丸めてこそこそと席に歩み寄っていく。
あの頃、先生の悪い噂ならたくさん耳にしていた。ほとんどがここにいる面々から聞かされたのだ。どうも窮屈そうに座っているなと思ったら固定されているカウンター席の間に丸イスを挟んで肩を並べている。お互いに寄りかかり合うようにしている人もいて、普段の牛丼屋の雰囲気とは違っていた。確かに私たちは近しい関係だった。この先どうなろうと一連托生なのだという血潮がめぐっていて、不揃いな小さな電球たちをつないだような在り方に慰められていた。居心地がよかった。だから気づき遅れてしまったのだ。いつしか明滅はちぐはぐに乱れて、ソケットから緩んでいくように一つ、また一つと消えていった。ごちそうさまも言わずに店を出て行く無愛想な客のように他人になっていく。それを横目に一体どうすればいいのか分からずに、私は滅法焦っていた。
隅の席は先生からやや離れているから空いているのだと腰を掛けたが、さっきまで誰かが座っていたような気配が残っていた。ふと向かいの席から視線を感じる。先生の小さな娘が水面から獲物を狙うワニのようにカウンターから顔を半分出してこちらを見ている。ここは娘の席だったのか。名前も思い出せないが、集まりにはよく連れてこられていた。大抵ほったらかされて、ひとり遊びをしているのだ。大人たちの肘に挟まれて動けなくなっているんじゃないかと心配していたら、スルリとカウンターにあがってしまった。さすがに誰かが注意するだろうと眺めていたが、他の客がいないこともあってか生半可に声をかけるだけで、先生にしても眉間に皺を寄せて黙り込んでいたかと思ったら、堰を切ったように軽妙に語りだし、U字カウンターの上を歩いてこちらの席まで戻ろうという様子の娘を止める気配はなかった。
みんなだって顔の前を横切っていくので疎ましく感じてはいるはずなのに、食器や水の入ったコップを蹴飛ばすことなく軽やかに進むので、無理に降ろそうとまではしなかった。そのうち調子にのって悠々自適にステップを踏んでふざけつつも、ようやくこちらまできたので、早く降りてくれと促すつもりで立ち上がり、混沌を収拾すべく席を譲った。その瞬間、先生と目が合ってしまい、そそくさと丸イスを引き寄せて座る。隣で娘はストンと椅子に座ると挨拶代わりにこんなことを言った。残念だけど、猫の言葉が分かるようになったのは、人間と話すことをすっかり一切やめてしまったからなんだ、と。そう告げられて、ああここに座ってるみんなとは、言葉を交わすことができなくなってしまっているのかと鵜呑みにしてしまった。長い間、あれだけ考えていたのに、結局なに一つ伝えられないことに心が沈んだ。
たぬきうどんって名前はたぬきがいるから。きつねがいなければきつねソバなんてない。うぐいすパンがあるってことはうぐいすがいるからで、だからカッパ巻きがあるのならカッパはいるのだ。続けざまにそんなニュアンスの事を唐突に口にして悪戯っぽく笑う。そしてカウンターに動物や鳥のシールをいくつもペタペタと貼り付けていた。どこかでみた気がするモチーフ。そういえば先生がいつか描いていた絵によく似ている。新しいところがなく権威的な印象を振りまいていたあの絵。大事なことからそっと引き剥がされ、あまねく集められたような生き物たちの目に漂うのは、あの日、つつじの花に飾られた彼らの目に映っていたものと同じ類のものだった。いつの間にかシールの生き物たちでカウンター上は溢れ返り、百鬼夜行の様相を呈していて、ひとつの絵の枠組みに収拾できない印象を受けた。そして先生の絵と比べれば、彼らの行軍はお祭りのようで、そこに現れる標識も、どこかで差し替えられてはいないように感じられた。
ざっと降り出した雨に打たれて宙を漂っている塵が落ちていくように、この心にまとわりつく特有の不安がどこかに拭われていく心持ちになる。この瞬間は光を遮るものがなく遠くまで見渡せるので、どこに活路の気配があるかを見つけられる。
先生の娘は、猫のシールを貼り付けるとそれで満足したのか電池が切れたかのようにうとうとしはじめ、今にも眠りに落ちそうだった。それで肩を少し揺すった。一眠りして、目が覚めたらでいいから、先生の話が終わってお店を出ていく前に、みんなに伝えて欲しい事を言付けられないかという考えが浮かんだ。賑やかな生き物たちを眺めていて、ふと大事な事に気づいたのだ。もちろん我々の運命を大きく変えられるとは思えない。しかしながら破綻をもたらす悪魔が一段深く踏み込む時に、それに気づく事がきっとできるはずだ。ただペンを走らせて背信を済ませてしまえば、ささやかな変化の裏側できっと微塵も残らずに消えてしまうだろうから、チャンスは一回きりだ。
先生の娘は眠りにとらわれて、咥えていた飴を口から落としてしまっていたが、なるべく平静を保ちながら、耳元で声をかけた。娘は応えて目を覚ました。こっちは焦りを抑えて分かりやすい言葉を探した。心が乱れるとこの夢は終わってしまう。みんなが日常に帰っていく前に、私はここで日常をわずかでも取り戻すのだ。引き金はソフトに、カチッと歯先がぶつからないようにと言葉を発した瞬間。娘はそれを遮ってこっちから先に話してもいいかと急に切り出した。それに頷くと、脈絡もなく「お父様、山田さんの口が煙草臭いですよ」と言って私の顔をじっと見詰めた。心拍が跳ね上がり現実に滑落していくのを感じた。目の前には、書き進まない紙切れが置かれている。冷めたコーヒーを少しだけ口に含んでみた。あの夜の荒川の色が広がっていった。