さよなら愛しのテオ
コーヒーをもう一杯と店員に注文したあなたの肩越しに寄せては返す波がみえる。癖のある髪。それを余念なく洗うようなあの力強い波打ち際に、もし石ころや割れたガラスの角を削るみたいな引き波の小気味よい音が混じっているとすれば、それに注意深く耳を澄ますのはおそらく翻弄されることにすっかり疲れてしまった口下手な漂着物たちばかりだろう。
ただ救いはそこにもあるはずだ。湿った浜に取り残されてなお、情熱を失わないものが紛れているのだ。それは指先で推し量るまでもなく一瞥しただけでも分かるところがあるから、あんがい造作もなくみつかる。箸休めにしてもらっていい。もしついでにこの泣き言にも相槌を打ってくれるんだったら、日が暮れるまでビーチコーミングでもしていたい。
テーブルに両肘をたてて頬杖をついてみる。こんな気分になったのは、目の前の議論がもつれたからだ。普段はあまりチェックしないSNSにあなたの短文が珍しく連投されているのに気づいたのは先々週のことだった。テーマはいつもと変わらず、一つ覚えのように私たちの教団についてだ。ただあっちに行ったりこっちに行ったりしながら返す刀で私のことまでついでに揶揄しているかのような含みのある書きっぷりは今までとはどうも毛色が違っていた。
それで続けざまに目を通していくとむしろどのセンテンスにも私のことが浅く埋葬されているように読み取れた。こういうことをするところがなにか妖怪っぽい。後ろからそっとこの首を絞めるとそのまま引きずっていって、他の人が一見したくらいでは私の亡骸を見つけられないように、まるで小枝や草花を見繕ってきて注意深く覆い被せるみたいにしながら、素知らぬ顔で寸評らしきものを仕立てているとしか受け取れなくなり、さすがに気になって久しぶりに連絡をとってみた。会って話そうということになったが、まあどこか恨まれているところがあるのは自覚していたので、程よく煙にまいてしまえるとは思えなかった。なのでこんなふうにうんざりさせられるのは、想定通りと言えばそうなのだ。
この流れを変えようと人差指と中指を行儀よく揃えてトントントンと叩指礼をしておどけてみせた。ありがとう。別に気分を害したわけでもないですよと、そうやって余裕があるかのように振る舞ってみせる。いつの頃だったか行きつけの中華でこれをあなたに教えてもらった。料理が出てくるのがやけに遅い店で、それに便乗するように夕暮れ時から長々と、とりとめのない話を楽しんだ時間が懐かしい。油をうまく染みさせた熱い茄子も美味しかった。あの頃、私は教えてもらった叩指礼をほとんど使わなかったが、あなたはことあるごとにトントントンと叩いた。感謝をあらわすよりも半ばふざけて「万々歳」という意味を響きに乗せて使うのが楽しかったらしく、人に教えておきながらサインが通じる相手ができたのをいいことに自分勝手な指遊びに私をよく付き合わせた。
ただ今となってはそんな振る舞いもテーブルの上のコーヒーを微かに揺らすだけだ。カフェの隅には天井から丸い電球を連ねたコードが一筋下げられていて、床でクルリととぐろを巻いている。夜になればおそらくオレンジに点灯するのだろう。しかし時間になにかを期待するべきではないなとまた海の方に視線を戻した。
石油ストーブの匂いと曇り空がよく合っているように感じられる。コーヒーはすっかり冷めていても鼻骨の裏をなぞるようにして、あなたがさっきふいに呟いた一言を思い出させた。日常を取り戻しつつある手応えを感じているという。秋の気配が微かに残る防砂林のなかでそれを聞いた。整備されていない木々の間を縫うようにしてずいぶん長いこと巡りながら、お互い最近あったことをぽつりぽつりと話していたところにやや脈絡なくそう言ったから、どこか同意するのに躊躇した。受け入れがたくもあった。それで、熱いものが欲しくなったとこちらも唐突に告げると、林を海のほうに抜けたところに漁師小屋のようなカフェがあると教えてくれた。
何度か口に含んでみたもののコーヒーはまだ半分残っている。うまく場をもたせようと思案六法の配慮を重ねていったはずなのに、言葉を尽くしてもいなされるし、ことさらに伏し目がちに構えられたりすると、その瞬きすら肩透かしに感じられて、それがいけなかったのか、はからずも徐々に嫌な熱を帯びていったのは私のほうだった。ブレーキを踏み込むみたいに抑制をきかせようとするのに言葉はそれとちぐはぐで、手放すことにしたクレジットカードにハサミを入れているような暗い感触があり、そこに生み出される角の鋭さに我がことながら失望させられた。それが私たちの関係のすべてのように感じられてしまう。
お店を出た後も、見失ってしまった話の糸口がみつからず、ぼんやり渚のほうを眺めていた。潮風に運ばれてくるプランクトンの死骸の匂いが薄い。海はそれほど冷たくはないのだろうか。砂浜に降りるまで気がつかなかったが、いつのまにかあなたのその肩の上には紙を折ってつくられた小さな人形が腰をかけていて、ずいぶん気持ちよさそうな表情で海風を受けている。会計を済ませてそこらへんの浜を散策でもしないかと言われ、カフェを出てぶらぶら歩き始めるまでのわずかな時間に、店員から受け取ったレシートで人形を作って手際よく顔まで描いたのか、それは単純な手先の器用さというよりちょっとした奇術のようだったし、ペラペラなくせに吹き飛ばされもせず、ちょこんと座り続けていることのタネもいまいち分からない。
そんなふうに突拍子もない投げかけをしたりふざけることは出会った頃からあったから、どこか食傷気味なところがあって、あえて気づかないふりをした。なにも言わずに靴を脱いで、靴下を丁寧に折りたたんでその中に入れると、あなたを背に水際のところまで風を受けながらまっすぐ歩いていって足の指で海水にそっと触れてみた。冬の海はあたりまえに冷たかったがそれでもさっきまでの議論で生じた泥濘が多少なりとも洗われていくように感じられた。後ろを振り返るとあなたも苦味が抜けたような寛いだ顔をしていて安堵を覚える。しかしそんな余韻もつかのまで、たちまち別の波が足をすくう。ああ、そういうことか。人を食ったようなスマイリーフェイスのそれをなぜ肩に乗せているのかの察しがついて、呆れてため息をつくしかなかった。おそらくあの唐変木は、話の最中に波に視線を漂わせていたことをきっちりと責めているのだ。自分こそ会話をはぐらかすような格好でソファーに腰掛けていたのに。
なんの落とし所も見つからないまま、とりとめもなく20分ほど砂浜を歩き続けている二人は、まるで月の沙漠をとぼとぼ行くラクダだ。おぼろにけぶる月の夜にあれは一体どこに向かっていたのだろうか。ただ片方は軽薄になりつつある関係をいつまでも乗せながら、またもう一方は棘の多いサボテンを飲み込んでは反芻しているということだけは分かる。それでも雄弁と沈黙の間に海があるので寂しみが紛れる。鞍に結ばれた金銀の甕がかち合うほどに、二頭のラクダが波打ち際で戯れる光景が浮かぶ。歌を重ねてみるとなおさら場当たり的で先のない逃避行のように感じられてしまうが、そういえば防砂林を歩きながらふと日常を取り戻しつつあるのだと口にする前に、あなたが黒い実を一つ摘んでいたことを思い出した。
林の中にはスイカズラが寒そうに葉っぱを丸めながら蔓をあちらこちらの樹木に絡めていて、あたりは黒い実がずいぶんと多い事に気づかされた。これの名前を知っているかと聞かれたので、スイカズラだろうと答えた。あなたはじっとその黒真珠のような実をみつめると、みるみる疲れた表情になった。もしあの時、スイカズラは白い花をつけ、色はそのうち黄色に変わるのだと、夏が近づくとこの辺りの潮の匂いにも独特な甘い香りが混じることはないだろうか?と言い加えれば、そんなひけらかしたような蘊蓄を隠喩と捉えて、あなたは別のことを呟いたのだろうか。おそらく以前であればそうだったかもしれない。いつの頃からだったか教団の事ばかりに頭を悩ませていて、日常の些細な出来事もその凋落に絡めて心を痛めていた。危ういほどに偏執していた。それでも私たちはもう若いとはいえないのだから、ぬかるみから抜けはじめた人生を再びなにかに捧げることが愚かだというのはよく分かっている。
結局のところ私にも心境の変化があることは否めない。近頃猫を飼うことになったのだ。そのことをあえて話題にはあげなかった。拾ってきた猫にはテオという名前をつけた。まだ生まれて3カ月も経たないくらいの仔猫だったが、少し体力もついてきて、食卓の上に登れるようになり、その都度抱えて床におろすのだが、まったくめげる様子もなく何度でも食卓にあがってきた。そして悪びれもせずなにか食べ物を狙ってテーブルの上を歩き回るところに、テオ!と名前を呼びながら叩指礼をすると視線が合う。どこか物憂げな瞳には、同時に違った色彩も潜ませていた。歩いっぽの無力感に苛まされながらも、その試みにはなんの意味はないと繰り返し水を差されても、前進を躊躇しない火焔のようなものをたたえていた。まるで一切の疑いもなく正しさを主張するかのような眼差しだった。
しかしある日、体調を崩したのを境にして、ずいぶんと大人しくなり、情熱をごっそり失ってしまったように見えた。そのうちだいぶ元気になったが、今朝は食卓を懐かしそうに眺めているだけで、ことさらに登ってはこなかった。朝食を済ませて食器を洗っていると手のひらがかじかんでフェルメールの朝支度のことを思った。テオは牛乳を注ぐ女の足元に置いてある足温器のようにじっとしている。静謐で穏やかな朝だった。
甕を傾けるときが来たらしい。私もこの生活を守らなければいけない。波打ち際を一頻り白濁させたらこのまま浜辺に打ち捨ててしまおう。いつか誰かがこの重い甕に微かな温度を感じとって拾い上げることもあるだろう。さよなら愛しのテオ。そう呟いてあたなの首の後ろを軽くつまんでみた。
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